約200種
日本に生息するトンボの種数(図鑑には203種が掲載)
1/1000
2000年前後を境に半数以上の府県でアキアカネが減少した規模
約15万か所
トンボの水辺となっている全国の農業用ため池の数

秋の夕暮れ、稲刈りの終わった田んぼの上を、赤いトンボの群れがすいすいと飛んでいく——。日本人なら誰もが思い浮かべられるこの風景は、実は世界的に見てもかなり特別なものです。日本には約200種ものトンボが生息し、その多くが田んぼやため池といった「人がつくった水辺」で命をつないできました。

古代の日本では、国土そのものを「秋津島(あきつしま)」と呼びました。「あきつ」とはトンボの古名。つまり日本は、古くから自他ともに認める「トンボの島」だったのです。ところがいま、その象徴だった赤とんぼ(アキアカネ)が、地域によっては1000分の1という桁違いの規模で減ってしまったことが研究者の調査で分かっています。

この記事では、日本のトンボの多様性がどこから来たのか、水中で暮らすヤゴの知られざる生活、そして田んぼ・ため池とトンボの深い関係を、環境省・農林水産省・国立環境研究所などの一次情報をもとにたどります。読み終わる頃には、秋の赤とんぼが少し違って見えるはずです。

この記事で学べること

  • 日本が「トンボの国」と呼ばれる理由と、約200種という多様性の中身
  • トンボの一生の大半を占める水中生活者「ヤゴ」の暮らしと羽化のドラマ
  • 田んぼとため池という『人がつくった水辺』がトンボを育んできた仕組み
  • 赤とんぼ(アキアカネ)が半数以上の府県で1000分の1に激減した理由
  • 絶滅危惧種ベッコウトンボの現状と、各地で進む保全の取り組み
  • 今日からできるトンボの観察・応援のはじめ方

日本はなぜ「トンボの国」なのか——約200種という多様性

世界には約5,000種を超えるトンボ(トンボ目)が知られており、日本ではそのうち約200種が記録されています。専門図鑑『日本のトンボ』には203種が掲載されており、国土面積を考えると、日本は世界でも指折りの「トンボが濃い」国です。

イトトンボからオニヤンマまで——2つのグループ

トンボ目は大きく2つのグループに分かれます。ひとつは均翅亜目(イトトンボの仲間)。細い体で前後の翅がほぼ同じ形をしており、とまるときに翅を閉じるものが多いグループです。もうひとつは不均翅亜目(トンボ・ヤンマの仲間)。がっしりした体で後翅が前翅より幅広く、とまるときも翅を水平に開いたままにします。

空中戦のスペシャリスト——トンボの飛行能力

トンボが2億年以上前から姿をほとんど変えずに生き残ってこられた最大の理由は、その圧倒的な飛行能力にあります。トンボは4枚の翅を一枚ずつ独立に動かすことができ、ホバリング(空中静止)、急旋回、さらには後ろ向きに飛ぶことまでできます。ヘリコプターやドローンの開発者がトンボの翅の構造を研究するのは有名な話で、生物の仕組みを技術に活かす「バイオミメティクス(生物模倣)」の代表的なお手本にもなっています。

頭部の大部分を占める複眼は、1万〜3万個ともいわれる小さな個眼の集合体で、ほぼ360度を同時に見渡せます。動くものを捉える能力は昆虫界でも屈指で、飛びながら小さな虫を空中で捕らえる狩りの成功率は9割を超えるという研究報告もあるほど。見た目の優雅さとは裏腹に、トンボは空のトップハンターなのです。

  • 日本最大はオニヤンマ。体長9〜11cmに達し、スズメバチさえ捕食する強力なハンターです
  • 日本最小はハッチョウトンボ。体長約2cmで一円玉に収まるほど小さく、世界最小級のトンボとされます
  • 赤とんぼと呼ばれるアキアカネやナツアカネ、宝石のように青く輝くイトトンボ類、蝶のように舞うチョウトンボなど、色も形も驚くほど多彩です
日本のトンボの多様性を示す様々な種類のトンボが水辺に集う様子
日本には約200種のトンボが生息。大きさも色彩も驚くほど多様だ

国名が「トンボの島」だった

『日本書紀』や『古事記』には、日本の国土を「秋津島(あきつしま)」と呼ぶ記述が登場します。「あきつ」はトンボの古名で、国土の形をトンボに見立てたという伝承も残ります。トンボは稲につく害虫を食べてくれる「田の守り神」であり、前にしか進まない姿から「勝ち虫」として武士の兜や刀装具の意匠にも好まれました。トンボは日本文化に深く織り込まれた昆虫なのです。

文学の世界でもトンボは常連です。俳句では「蜻蛉(とんぼ)」は秋の季語。童謡「赤とんぼ」(三木露風作詞・山田耕筰作曲)は、夕焼け空を飛ぶ赤とんぼにふるさとの記憶を重ねた歌として、100年近く歌い継がれてきました。トンボの姿が「帰りたい風景」の象徴になっている国は、世界でもそう多くありません。

水辺のタイプ代表的なトンボ特徴
田んぼ・浅い湿地アキアカネ・ナツアカネ・シオカラトンボ季節的に水が入る環境に適応。短期間で羽化する
ため池・池沼ギンヤンマ・チョウトンボ・イトトンボ類一年中水がある環境。水草の茂る岸辺を好む
小川・渓流オニヤンマ・カワトンボ類・サナエトンボ類きれいな流れと砂泥の川底が必要。ヤゴ期間が長い種が多い
湿原・湧水湿地ハッチョウトンボ・モートンイトトンボごく浅い水と低い草はら。開発に弱く各地で減少
市街地の公園・プールウスバキトンボ・シオカラトンボ身近な水たまりでも育つたくましい顔ぶれ
水辺のタイプごとに主役のトンボは異なる(各種図鑑をもとに作成)

日本のトンボが多様な理由

  • 南北3,000kmに及ぶ国土が亜熱帯から亜寒帯までカバーし、気候帯ごとに異なる種が暮らす
  • 山地の渓流・湿原・平地の池沼・田んぼと、水辺のタイプが多彩
  • 2,000年以上続く稲作が、浅くて暖かい「人工の湿地」を大量に供給してきた

トンボの一生——その大半は水の中の「ヤゴ」時代

空を自在に飛ぶトンボですが、実はその一生の大半を水の中で過ごします。幼虫は「ヤゴ」と呼ばれ、種類によって数か月から数年間、水底で暮らしながら成長します。トンボを知ることは、ヤゴの暮らす水辺を知ることでもあるのです。

ヤゴ——水中の小さなハンター

ヤゴは肉食で、ユスリカの幼虫(アカムシ)やミジンコ、小さなオタマジャクシや小魚まで捕食します。武器は「下唇(かしん)」と呼ばれる折りたたみ式のアーム。普段はあごの下にたたんでいますが、獲物が射程に入ると一瞬で伸ばして捕らえます。この狩りを繰り返しながら10回前後の脱皮を重ね、少しずつ大きくなっていきます。

ヤゴの期間は種類によって大きく異なります。ウスバキトンボのように1〜2か月ほどで羽化する「早熟型」もいれば、オニヤンマのように羽化まで数年かかる「じっくり型」もいます。つまり流れの安定した水辺が数年単位で保たれないと、オニヤンマのような大型種は世代をつなげません。

ヤゴの体には、水中生活ならではの驚きの仕組みが備わっています。トンボ・ヤンマ型のヤゴはお尻の中にある「直腸鰓(ちょくちょうさい)」で呼吸し、緊急時にはお尻から水を勢いよく噴射してジェット推進のように逃げることができます。一方イトトンボ型のヤゴは、お尻の先に葉っぱのような3枚の「尾鰓(びさい)」を持ち、これで水中の酸素を取り込みます。同じトンボの仲間でも、水中での体のつくりはまるで違うのです。

産卵——種によって違う「水辺の選び方」

トンボの産卵方法は驚くほど多彩です。赤とんぼの仲間は飛びながらお尻の先で水面や泥を打つように卵を産み落とします(打水産卵・打泥産卵)。ギンヤンマやイトトンボの仲間は、水草の茎に切れ込みを入れて組織の中に卵を埋め込みます。オニヤンマは浅い流れに立ち込むようにホバリングしながら、砂泥に何度もお尻を突き刺して産卵します。どの方法も「わが子(ヤゴ)が育つ水辺」を選び抜くための戦略で、逆にいえば、その条件に合う水辺が消えると、その種のトンボも消えてしまいます。

羽化——命がけの変身

成長しきったヤゴは、初夏の朝、水から出て稲の茎や杭をよじ登り、背中が割れて成虫が現れます。羽化と呼ばれるこの変身は数時間におよび、翅が伸びて固まるまでは外敵から逃げることもできない、一生でもっとも無防備な時間です。羽化直後の柔らかい体で初飛行に成功したものだけが、空の世界の住人になれます。

成虫の暮らし——縄張り・タンデム飛行・赤くなる体

空の住人になってからのトンボの暮らしも見どころにあふれています。多くの種のオスは水辺に縄張りを構え、巡回しながら侵入者を追い払い、メスを待ちます。交尾のあと、オスがメスの首をつかんだまま連なって飛ぶ「タンデム(連結)飛行」は、他のオスの妨害からメスを守りながら産卵させるための行動です。また、シオカラトンボのオスが成熟すると白い粉をまとうように、トンボは成長とともに体色が変わる種が多く、赤とんぼの「赤」も成熟のしるし。羽化したばかりのアキアカネは黄褐色で、秋に平地へ戻る頃に鮮やかな赤へと変わっていきます。

成虫の寿命は意外に長く、アキアカネは初夏に羽化してから晩秋に産卵を終えるまで、およそ4〜5か月を成虫として生きます。「トンボの命ははかない」というイメージがありますが、卵から数えれば約1年。夏の山での避暑生活まで含めると、小さな体で驚くほど計画的な一年を送っているのです。

種類ヤゴの期間主な生息環境
ウスバキトンボ約1〜2か月プール・水たまり・ため池
アキアカネ(赤とんぼ)卵で越冬し春から約2〜3か月田んぼ・浅い湿地
シオカラトンボ数か月〜1年程度池・ため池・田んぼ
ギンヤンマ数か月〜1年程度池・ため池
オニヤンマ数年小川・湧き水のある流れ
ヤゴの期間は種類によって大きく異なる(各種図鑑・研究資料をもとに作成)

ヤゴは「水質と水辺の連続性」のバロメーター

ヤゴは水中の獲物、羽化のための茎、成虫が戻ってくる産卵環境と、水辺の全要素を必要とします。だからトンボが多い水辺は、生きもの全体が豊かな水辺。トンボは水辺の健康診断をしてくれる「指標昆虫」なのです。

田んぼは「人がつくった湿地」——アキアカネの一年

日本のトンボの多様性を語るうえで欠かせないのが田んぼの存在です。日本の田の面積は約230万ヘクタール(農林水産省・令和7年耕地面積統計)。春に水が張られ、夏に稲が茂り、秋に乾く——この浅くて暖かい「季節湿地」のリズムに、トンボたちは見事に適応してきました。

もともと日本の低地には、川の氾濫がつくる自然の湿地が広がっていました。しかし国土地理院の調査によると、日本の湿地面積は明治・大正期と比べておよそ6割も減少しています。干拓や都市化で自然の湿地が消えていくなかで、その代役を務めてきたのが田んぼでした。毎年決まった時期に水が張られる田んぼは、トンボやカエル、水生昆虫にとって「人が維持してくれる湿地」として機能してきたのです。

実際、田んぼとその周りの水路・あぜ・ため池を含めた環境からは、5,000種を超える生きものが確認されたという調査もあります。トンボはその生きものネットワークの中でも、ヤゴとして水中の虫を食べ、成虫として空の虫を食べ、自らは鳥やカエルやクモの餌になるという、食物連鎖の真ん中に立つ存在。トンボが飛び交う田んぼは、その下でたくさんの命が回っている証拠なのです。

赤とんぼの一年は田んぼのカレンダーと重なる

  1. :アキアカネのメスは、稲刈り後の田んぼの湿った泥やたまり水に産卵する
  2. :卵のまま田んぼの土の中で越冬する
  3. :田植えに向けて水が張られると孵化し、ヤゴとして水中で成長する
  4. 初夏:稲の茎をよじ登って羽化。若い成虫は暑さを避けて涼しい山地へ「避暑」に移動する
  5. :赤く色づいた成虫が平地へ戻り、田んぼで交尾・産卵して一生を終える

つまりアキアカネの生活史は、田んぼの農事暦とほぼ完全に同期しています。田植えと稲刈りを2,000年以上繰り返してきた日本の稲作こそが、赤とんぼの大群を育んできた「ゆりかご」だったのです。田んぼの生きものたちの世界は田んぼの生きもの図鑑でも詳しく紹介しています。

田んぼへの恩返し——トンボは天然の害虫ハンター

トンボは田んぼに育ててもらうだけの存在ではありません。成虫はウンカやヨコバイ、ガの仲間など、稲を害する虫を空中で捕らえて食べる天然のハンターです。水中のヤゴも、蚊の幼虫であるボウフラをよく食べるため、昔から「トンボの多い村は蚊が少ない」と言われてきました。農薬のなかった時代、田の虫を抑えてくれるトンボはまさに「田の守り神」であり、だからこそ人々はトンボを大切にし、トンボもまた田んぼで殖える——そんな持ちつ持たれつの関係が、この国では何百年も続いてきたのです。

この記事の要点となる3つの数字をまとめた図版
数字で見る:本文で扱う3つの指標

「中干し」とヤゴのタイミング

一方で、現代の稲作にはヤゴにとって試練もあります。夏前に田んぼの水をいったん抜く「中干し」は、稲の根を強くする大切な作業ですが、羽化前のヤゴには死活問題です。福井県などの農業試験研究では、中干しの時期を少し遅らせたり、田んぼの一角に水たまりを残したりするだけで、ヤゴの羽化数が大きく変わることが報告されています。農家の小さな工夫が、赤とんぼの数を左右しているのです。

「冬みず田んぼ」という選択肢

近年は、収穫後の田んぼに冬も水を張る「冬期湛水(冬みず田んぼ)」という取り組みも各地で広がっています。冬の田んぼが水鳥の休息地や水生生物のすみかになり、イトミミズが増えて雑草を抑える効果も期待されるという一石二鳥の農法です。宮城県の蕪栗沼周辺水田のように、田んぼそのものがラムサール条約湿地に登録された例もあります。トンボにとっても、水のある期間が延びることは、暮らしの場が広がることを意味します。

全国15万か所——ため池というトンボの楽園

田んぼとセットでトンボを支えてきたもうひとつの水辺がため池です。農林水産省によると、日本には農業用ため池が約15万か所あり、雨が少なく大きな川に恵まれない西日本を中心に分布しています。その多くは江戸時代以前に造られたもの。数百年にわたって水をたたえ続けてきた歴史ある水辺です。

ため池の歴史は古く、讃岐平野(香川県)の満濃池(まんのういけ)は、平安時代に空海(弘法大師)が改修を指揮したと伝えられる日本最大級の農業用ため池です。都道府県別でもっとも数が多いのは兵庫県で、2万か所を超えるため池が今も現役で働いています。数百年単位で水をたたえてきた池には、その時間の長さでしか育たない生態系——多様な水草、貝、魚、そしてトンボの群集——が息づいています。

ため池がトンボに好かれる理由

  • 田んぼと違って一年中水がある——ヤゴ期間が1年を超える種も暮らせる
  • 岸辺が浅く、水草やヨシが茂る——産卵場所と羽化の足場がそろう
  • 農業とともに人の手で管理されてきた——深すぎず、魚の圧力も比較的穏やか
  • 田んぼ・水路・里山とつながっている——成虫の餌場や避難場所がすぐ隣にある
水草の茂るため池でトンボが産卵し、ヤゴが水中で暮らす様子の断面図
ため池は水上も水中もトンボの暮らしの舞台。一年中水があることが強みだ

ため池の危機はトンボの危機

しかし、ため池を取り巻く状況は厳しくなっています。農家の減少で管理されないため池が増え、埋め立てや老朽化による廃止も進んでいます。さらにアメリカザリガニやオオクチバス(ブラックバス)などの外来生物が入り込むと、水草が刈り倒され、ヤゴが直接捕食されて、トンボ相が一変してしまうことが各地で報告されています。ため池の生態系そのものについてはため池の生態系の記事で詳しく解説しています。

「かいぼり」——池の水を抜く伝統の知恵

ため池には「かいぼり(池干し)」と呼ばれる伝統的な管理法があります。冬に池の水を抜いて底を天日にさらし、たまった泥を取り除き、魚を獲る——数百年続いてきたこの作業は、結果として水質を浄化し、外来魚を一掃し、水草の種子に光を当てて発芽を促す、優れた生態系メンテナンスでもありました。近年は東京の井の頭公園のかいぼりで水草がよみがえった例が話題になるなど、各地で「生きもののためのかいぼり」が復活しています。人が手を入れ続けることで保たれる自然がある——ため池はその代表例なのです。

ため池とトンボを取り巻く逆風

  • 担い手不足で草刈り・泥さらいなどの管理が途絶え、水辺が荒れる
  • 防災上の理由や農地転用で埋め立て・廃止されるため池が増えている
  • アメリカザリガニ等の外来生物がヤゴと水草を食い荒らす

赤とんぼはなぜ消えたのか——1000分の1の衝撃

「昔は空が赤くなるほど飛んでいたのに、最近見ない」——そう感じているのは気のせいではありません。石川県立大学の上田哲行氏らトンボ研究者の全国調査によって、アキアカネは2000年前後を境に、半数以上の府県で個体数が1000分の1レベルにまで激減したことが明らかになっています。

疑われたのは「育苗箱の農薬」

激減の時期は、稲の苗箱にあらかじめ施用する浸透移行性殺虫剤(箱処理剤)の普及時期と重なっていました。日本ではイミダクロプリド(ネオニコチノイド系)が1993年から、フィプロニル(フェニルピラゾール系)が1996年から出荷されており、これらは苗と一緒に田んぼへ持ち込まれ、水に溶けてヤゴの暮らす水中に広がります。

「浸透移行性」とは、薬剤が植物の体内に吸収され、茎や葉のすみずみまで行き渡る性質のことです。害虫が稲をかじれば駆除できる便利な仕組みですが、薬剤の一部は田んぼの水にも溶け出します。ヤゴのように水中で何か月も暮らす生きものは、その水に長期間さらされ続けることになります。しかも影響は「即死」とは限らず、餌となる小さな水生生物が減る、成長が遅れて羽化に失敗するといった、じわじわ効く形でも現れることが実験で示されています。

国立環境研究所が実際の水田を模した実験水田で行った試験(2016年公表)では、フィプロニルを処理した区画でアキアカネなどのトンボの羽化数がほぼゼロになるという明瞭な結果が出ました。環境省も2017年に「農薬の昆虫類への影響に関する検討会」の取りまとめを公表し、フィプロニル系の箱処理剤がトンボ類の減少要因のひとつとなり得ることを認めています。

農薬だけではない、複合的な要因

  • 乾きやすく整備された基盤整備水田の増加——秋の産卵場所となる湿った田面が減った
  • 耕作放棄地の増加——水が張られない田んぼはトンボにとって存在しないのと同じ
  • 中干しの徹底や早期落水——ヤゴが羽化する前に水がなくなる
  • ため池・水路の改修や消失——コンクリート護岸は産卵にも羽化にも不向き

トンボの減少は日本だけの話ではありません。海外の総説研究では、世界の昆虫の約4割の種が減少傾向にあると警告されており、トンボを含む水生昆虫はその中でもとりわけ影響を受けやすいグループとされています。空を飛ぶ虫が減れば、それを食べるツバメなどの鳥も減る——昆虫の減少は、生態系全体を揺るがす連鎖の始まりなのです。

減少の要因トンボへの影響考えられる対策
育苗箱の浸透移行性殺虫剤ヤゴの死亡・餌不足・羽化の失敗トンボへの影響が小さい成分への切り替え・使用量の見直し
田んぼの乾田化・早期落水秋の産卵場所と羽化前の水が消える中干し時期の工夫・田面の水たまりの保全
耕作放棄・水田面積の減少そもそも水が張られる場所が減る農地の維持・生きものを育む農業への支援
ため池・水路のコンクリート化産卵場所と羽化の足場を失う多自然型の護岸・水草帯の保全
アキアカネ減少の主な要因と対策の方向性(環境省検討会資料などをもとに作成)

ただし希望もあります。環境省の検討会報告の後、トンボへの影響が小さい薬剤への切り替えや使用の見直しは、産地や農協単位でも少しずつ進み始めました。生きものへの影響に配慮した米づくりを掲げる産地では、田んぼの生きもの調査で赤とんぼの回復が確認された例も報告されています。消費者がそうしたお米を選ぶことも、巡り巡って赤とんぼの数を左右します。原因が特定できているということは、私たちの側に打てる手があるということなのです。

アキアカネの羽化数は、ネオニコチノイド系殺虫剤を使用した水田では従来の約3割に、フィプロニルを使用した水田ではほぼゼロにまで減少した。

― 国立環境研究所・実験水田を用いた農薬の生物多様性への影響評価(2016年公表の研究成果より要約)

赤とんぼを取り戻すための動き

  • 研究者・農家・農協が連携し、トンボに影響の小さい防除への切り替えを進める産地が出てきた
  • 中干し時期の調整や田面の水たまり保全など、水管理の工夫でヤゴの生存率は大きく変えられる
  • 生きものへの配慮を掲げたお米を選ぶことが、トンボを育む田んぼへの一票になる

絶滅の縁に立つトンボたち——ベッコウトンボと保全の現場

環境省レッドリスト2020には、日本の絶滅危惧種として3,675種が掲載されており、トンボの仲間も複数がリスト入りしています。その象徴がベッコウトンボ。翅にべっ甲細工のような褐色の斑紋を持つ美しいトンボで、絶滅危惧IA類(ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高い種)に指定され、「種の保存法」により捕獲も禁じられています。

ベッコウトンボはなぜ追い詰められたのか

ベッコウトンボは、ヨシなどが茂る平地の古い池沼を好みます。ところがそうした水辺は、人間の生活圏と真正面から重なっていました。埋め立てや護岸工事で生息地そのものが消え、水位の急変や水質悪化が追い打ちをかけ、アメリカザリガニなどの外来生物がヤゴを捕食する——。環境省によると、国内の生息地は現在、静岡県・山口県・九州の一部などごく限られた場所だけになっています。

ヨシの茂る保全池でベッコウトンボを見守る人々の観察会の様子
生息地の保全と観察会——人の手で守られる水辺がトンボの未来をつなぐ

各地で進む保全の取り組み

静岡県磐田市の桶ケ谷沼(おけがやぬま)は、ベッコウトンボの国内有数の生息地として知られ、県の自然環境保全地域に指定されて水位管理や外来生物の駆除、ヨシ原の維持といった手入れが続けられています。環境省も保護増殖事業を進めており、地域のボランティアや学校も参加した「みんなで守る水辺」のモデルになっています。絶滅の縁から回復した生きものとしては、田んぼの生きものに支えられたトキと佐渡の物語も参考になります。

トンボのためにつくられた公園もあります。高知県四万十市の「トンボ自然公園(トンボ王国)」は、1985年に開園した世界初のトンボ保護区として知られ、放棄された湿田を市民の手で買い取り、トンボがすめる湿地に再生してきました。これまでに数十種のトンボが確認され、「守る」だけでなく「呼び戻す」保全が可能であることを30年以上かけて証明し続けています。

海辺にも、山にも——危機にあるのはベッコウトンボだけではない

レッドリストに載るトンボは、ベッコウトンボだけではありません。たとえばヒヌマイトトンボは、1971年に茨城県の涸沼(ひぬま)で発見された、海水と淡水が混じる汽水域のヨシ原だけにすむ世界的にも珍しいイトトンボです。河口の開発でヨシ原が失われるたびに生息地が消え、環境省レッドリストの絶滅危惧種に位置づけられています。湿原にすむハッチョウトンボも、湧水湿地の開発や乾燥化で地域的な絶滅が相次いでいます。水辺のタイプごとに専門家がいるトンボの世界では、水辺が一種類失われることが、そのままトンボが一種類消えることにつながりかねないのです。

トンボの保全は「点」ではなく「面」

トンボは水辺(ヤゴ)と陸の緑(成虫の餌場・休息場所)の両方を必要とします。池だけ守っても、周りの草地や林が失われれば暮らせません。生息地の保全では、水辺とその周辺をひとまとまりの環境として守ることが重視されています。

海を渡るトンボ——ウスバキトンボの数千キロの旅

日本のトンボの物語には、海を越えるスケールの大きな主人公もいます。ウスバキトンボは、昆虫の中で世界最長級の距離を移動する種として知られ、インド洋を横断して大陸間を移動する集団も報告されています。薄く軽い翅で気流に乗り、ほとんど羽ばたかずに滑空し続けられる体のつくりが、この長距離飛行を可能にしています。

海の上をどうやって飛び続けるのか

着地する場所のない大海原を、体長5cmほどの昆虫がどうやって渡るのでしょうか。鍵は、体重あたりの翅の面積がトンボの中でも際立って大きいこと。グライダーのように気流に乗れば、羽ばたきをほとんど使わずに浮かび続けられます。季節風や上昇気流をつかまえて高い空を流れ、雨季の訪れとともに移動先の水たまりで一気に繁殖する——インド洋を渡る集団は、モンスーンの風に乗ってアフリカとインドの間を行き来していると考えられています。小さな翅に刻まれた、地球の風と雨を読み切る旅の設計図です。

毎年、南から日本へ「片道切符」の旅

ウスバキトンボは毎年春、南方から海を越えて日本に飛来し、田んぼやプール、水たまりで世代交代を繰り返しながら北上します。ヤゴの期間はわずか1〜2か月と短く、夏の終わりには北海道に達するほどのスピードです。しかし寒さに弱いため、冬になると南西諸島の一部を除いて日本のほとんどの地域で死んでしまいます。翌年また、南から新しい世代がやってくる——毎年繰り返される壮大な「片道切符」の旅です。

お盆の頃に群れて飛ぶことから「精霊(しょうりょう)トンボ」とも呼ばれ、先祖の霊を乗せて帰ってくるトンボとして大切にされてきました。海と空を舞台にした地球規模の旅人が、日本の夏の風物詩になっているのです。

謎を追いかける市民調査

ウスバキトンボがいつ、どこまで北上するのかは、実はまだ解明しきれていない謎です。日本では研究者と市民が協力した「ウスバキトンボ全国調査」が続けられており、全国の参加者が初見日や飛来数を報告することで、飛来前線が北上していく様子が地図として描かれてきました。誰でも参加できる調査が最先端の研究を支えている、市民科学の好例です。

また、気候変動もトンボの分布を動かし始めています。南方系のタイワンウチワヤンマなどが分布を北へ広げていることが各地の観察で報告されており、トンボは温暖化の進行を映す「生きた温度計」としても注目されています。身近なトンボの顔ぶれの変化は、地球規模の変化のサインでもあるのです。

ウスバキトンボの旅のすごさ

  • 昆虫として世界最長級の移動距離——インド洋横断の大移動も知られる
  • ヤゴ期間は約1〜2か月と超スピード成長で、移動先ですぐ世代交代できる
  • ほぼ全世界の熱帯・温帯に分布する「世界でもっとも広く分布するトンボ」のひとつ

トンボと出会い、味方になるためにできること

トンボの面白さは、特別な装備がなくても出会えることです。近所の公園の池、田んぼの脇の水路、学校のプール——ヤゴと成虫は、私たちのすぐそばで暮らしています。まずは出会って、名前をひとつ覚えることが、水辺の環境を考える入り口になります。

観察のコツ

  • 季節:初夏はイトトンボやヤンマ、盛夏はウスバキトンボ、秋は赤とんぼと主役が交代していく
  • 時間帯:午前中の暖かい時間が活発。羽化を見たいなら初夏の早朝の水辺へ
  • 場所:水草の茂る浅い岸辺が一等地。オスは縄張りを巡回するので、待っていれば戻ってくる
  • とまり方に注目:翅を閉じればイトトンボの仲間、開いたままならトンボの仲間と大きく見分けられる

観察するときのマナーもひとつだけ。ベッコウトンボのように「種の保存法」で捕獲が禁じられている種や、地域の条例で採集が制限されている場所があります。珍しいトンボに出会ったら、捕まえるのではなく写真と記録で残すのが今の時代の楽しみ方。撮影した記録は市民参加型の生きもの調査に報告すれば、そのまま研究と保全に役立つデータになります。環境省が運営する「いきものログ」のように、見つけた生きものの記録を全国のデータベースに登録できる仕組みもあり、あなたの散歩の記録が日本のトンボ分布図を描く一筆になります。

学校プールの「ヤゴ救出大作戦」

意外なトンボの繁殖地が、学校のプールです。秋から春まで使われないプールは、ウスバキトンボやアカネ類にとって格好の産卵場所。初夏のプール清掃で水を抜くと、大量のヤゴが流されてしまうため、清掃前に子どもたちがヤゴをすくって近くの池に移したり、教室で羽化まで育てたりする「ヤゴ救出作戦」が全国の小学校で行われています。1つのプールから数百〜数千匹のヤゴが見つかることも珍しくなく、命の観察と環境学習を兼ねた取り組みとして定着しつつあります。

暮らしの中でできる応援

  • 地域のトンボ観察会・ため池の保全活動・生きもの調査に参加してみる
  • 庭やベランダに小さな水鉢(ビオトープ)を置く——ヤゴが育つ例も多い
  • 生きものと共存する工夫をした農産物(生きものブランド米など)を選んで、トンボを育む田んぼを支える
  • 見つけたトンボを記録して、市民参加型の生きもの調査に報告する
この記事のポイントを箇条書きでまとめた図版
この記事のポイント。詳しくは各章で解説している

秋津島——トンボの島という古い名前は、水辺と人の暮らしが折り重なってきたこの国の風土そのものを指しています。田んぼに水が張られ、ため池が手入れされ、ヤゴが育つ。その営みが続くかぎり、秋の空にはまた赤とんぼが帰ってきます。次に赤いトンボを見かけたら、少しだけ立ち止まって、その小さな旅人を見送ってみてください。

この記事のまとめ

  • 日本には約200種のトンボが生息し、国土は古くから「秋津島(トンボの島)」と呼ばれてきた
  • トンボの一生の大半は水中のヤゴ時代。田んぼとため池(全国約15万か所)がその暮らしを支えてきた
  • アキアカネは2000年前後を境に半数以上の府県で1000分の1規模に激減。育苗箱の殺虫剤の影響が研究で示されている
  • ベッコウトンボは絶滅危惧IA類。生息地の保全と外来生物対策が続けられている
  • 観察・水辺づくり・生きものを育む農業の応援など、身近な行動がトンボの未来につながる

参考文献・出典

  1. 環境省 – ベッコウトンボ(保護増殖事業)
  2. 環境省 – レッドリスト・レッドデータブック
  3. 環境省 – 我が国における農薬がトンボ類及び野生ハナバチ類に与える影響について(農薬の昆虫類への影響に関する検討会・平成29年)
  4. 国立環境研究所 – 実験水田を用いた農薬の生物多様性への影響評価〜浸透移行性殺虫剤がもたらすトンボへの影響〜
  5. 農林水産省 – 農業用ため池の概要
  6. 農林水産省 – 令和7年耕地面積(7月15日現在)
  7. 日本自然保護協会(NACS-J) – 全国で激減するアキアカネ
  8. 福井県 – トンボやホタルにやさしい農薬と水管理技術(平成29年度指導活用技術)

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