約8500km
太平洋を横断する回遊の往復距離
2021年
初期資源量20%の回復目標を達成(予定より13年早く)
2002年
近畿大学が世界初のクロマグロ完全養殖に成功

刺身や寿司の主役として親しまれるクロマグロは、じつは海洋生物学のなかでも屈指の「超一流アスリート」です。日本の南の海で生まれた小さな稚魚の一部は、やがて太平洋を横断してアメリカ西岸の沖まで旅をし、ふたたび日本へ戻ってきます。その距離は往復で約8500kmにもなります。

しかもクロマグロは、周囲の海水が冷たくても体の内部を温かく保ち、高速で泳ぎ続けることができます。その秘密は「奇網(きもう)」と呼ばれる特殊な血管の束にあります。魚でありながら体温を海水温より高く保つ——この性質が、広い水温の海を自在に行き来する大回遊を可能にしているのです。

この記事では、標識調査が明かした回遊のルート、体を温める血管構造のしくみ、高速遊泳を支える体のつくり、そして激減した資源が回復に向かった管理の歩みと、世界初の完全養殖の現在地までを、公的機関や査読研究の情報にもとづいて一気にたどります。

この記事で学べること

  • クロマグロが日本近海の産卵場から東部太平洋まで、太平洋を横断して回遊する実態
  • 動脈と静脈を密着させて熱を逃がさない「奇網(対向流熱交換)」の仕組み
  • 冷たい海でも高速で泳ぎ続けられる、赤身の筋肉とラムジェット換水の関係
  • 若魚期に体温を保つ力が急速に発達するという最新研究の発見
  • 激減から回復へ向かった太平洋クロマグロの資源管理と、2025年からの漁獲枠拡大
  • 近畿大学が32年かけて達成した世界初の完全養殖と、その事業化の現在地

クロマグロとは何者か——海を駆けめぐる高速ハンター

クロマグロ(本マグロ、学名 Thunnus orientalis/太平洋クロマグロ)は、サバ科マグロ属に属する大型の回遊魚です。最大で全長3m、体重400kgを超える個体も記録されており、マグロ類のなかでも最高級とされます。日本人にとってはなじみ深い食材ですが、その生態は長らく謎に包まれてきました。広い外洋を高速で移動するため、野生下での追跡が難しかったからです。

クロマグロを理解するうえで欠かせないのが、「止まると死んでしまう魚」という有名な特徴です。多くの魚はえらぶた(鰓蓋)を開け閉めして水を吸い込み呼吸しますが、クロマグロは口を開けて泳ぐことで得た水流をえらに送る「ラムジェット換水(ラム換水)」に強く依存しています。つまり、泳ぎ続けることそのものが呼吸なのです。回遊という生き方は、この体のつくりと切り離せません。

食文化の面でも、クロマグロは日本人にとって特別な存在です。江戸時代には「シビ」と呼ばれ、傷みやすさから必ずしも高級魚ではありませんでしたが、冷凍・流通技術の発達とともに評価が一変し、いまでは大トロ・中トロを筆頭に寿司ネタの頂点に位置づけられています。豊洲市場の初競りで一本数千万円の値がつくニュースは、この魚がもつ経済的・文化的な重みを象徴しています。だからこそ、その生態を科学的に理解し、獲りすぎずに付き合っていくことが強く求められているのです。

外見に刻まれた「速く泳ぐための設計」

クロマグロの体は、水の抵抗を極限まで減らすようにデザインされています。紡錘形(前後に長い流線型)の胴、金属のように滑らかな体表、そして力を一点に集約する三日月形(半月形)の尾びれ。背びれや腹びれは高速時に体の溝へ収納でき、体側の後方には小さな「離鰭(りき)」が並んで水流の乱れを整えます。すべてが「効率よく速く進む」ための工夫です。

  • 紡錘形の体:水の抵抗を最小化し、少ないエネルギーで前進する
  • 三日月形の尾びれ:高速遊泳に適した推進力を生み出す
  • 収納できるひれ:巡航時は体の溝に収めて抵抗を減らす
  • 赤い筋肉(血合)が発達:長時間の持続的な運動を支える
クロマグロの体の各部位に高速遊泳の工夫を示したフラット図解
クロマグロの体は「速く長く泳ぐ」ための設計が随所に見られる。

マグロ属のなかでのクロマグロの位置づけ

世界のマグロ属にはクロマグロ(太平洋・大西洋)、ミナミマグロ、メバチ、キハダ、ビンナガなどがいます。なかでもクロマグロは最も大型になり、冷たい海にも進出でき、体温を保つ能力がとくに高いグループです。日本近海で「マグロの王様」と呼ばれるのはこのクロマグロで、寿司ネタの大トロ・中トロの多くを占めます。ここで扱う太平洋クロマグロ(Thunnus orientalis)は、大西洋クロマグロとは別種で、太平洋を主な生活の場とします。

同じマグロ属でも、種によって好む水温や回遊のスケールは大きく異なります。キハダやメバチは比較的暖かい海を好む一方、クロマグロは高い体温維持能力を武器に、亜寒帯の冷たい海にまで進出できます。この「冷たい海を使える」という点こそが、クロマグロを太平洋横断という桁外れの旅へ送り出す原動力になっています。体温を自分で高められる魚だからこそ、他のマグロが行けない海域まで足を延ばせるのです。

生態系のなかでのクロマグロの立ち位置も見逃せません。クロマグロはイワシやサバ、サンマ、イカといった小魚を大量に食べる、海の食物連鎖の頂点近くに位置する捕食者(トッププレデター)です。頂点捕食者が健全に存在していることは、その海の生態系全体がバランスよく機能している証でもあります。だからクロマグロの資源を守ることは、単に一つの魚種を守るだけでなく、外洋の生態系のバランスそのものを守ることにつながっているのです。

名前の整理

「クロマグロ」は種の名前、「本マグロ」は主に流通・食用での呼び名でほぼ同じものを指します。幼魚は地域によって「ヨコワ」「メジ」などと呼ばれ、成長段階で呼称が変わる出世魚的な扱いを受けることもあります。

回遊性の海洋生物という点では、クロマグロはクジラの大回遊サケの母川回帰とならぶ、海の長距離移動者の代表格です。ただし、その移動を支える仕組みはそれぞれまったく異なります。クロマグロの場合、鍵を握るのは「体温」を自分でつくり出す力でした。

太平洋8500kmを渡る——標識調査が明かした大回遊

太平洋クロマグロの主な産卵場は、日本の南——南西諸島から台湾東方の海域(産卵期はおおむね4〜7月)と、日本海南西部(産卵期は7〜8月)にあります。つまり、太平洋クロマグロは基本的に日本の周辺で生まれる魚です。ここで生まれた稚魚の一部が、やがて壮大な旅に出ます。産卵場が日本近海に集中しているという事実は、この資源の管理において日本が大きな責任を負っていることを意味します。

生まれたばかりのクロマグロの仔魚はわずか数ミリ。それが1年ほどで数十cmの若魚へと猛烈な勢いで成長します。この成長の速さもマグロ類の大きな特徴で、大量のエサを食べては素早くエネルギーに変える体の仕組み(後述する温かい内臓が効いています)に支えられています。急速に大きくなった若魚たちは、日本近海にとどまるグループと、太平洋を東へと渡っていくグループとに分かれていきます。

アーカイバルタグが記録した「渡洋回遊」

クロマグロの回遊が具体的に分かってきたのは、体内にIC(電子メモリ)を内蔵した「アーカイバルタグ(記録型標識)」を魚に取り付ける調査が進んだからです。この標識は水温・深度・光量などを長期間記録し続け、再捕獲されたときにデータを回収して移動ルートを復元します。とくに光量(日の出・日の入りの時刻)から経度を、水温や日長から緯度を推定することで、放流されてからの日々の位置をたどれるのが画期的でした。広い外洋では魚を目で追い続けることはできませんが、標識が「日記」のように記録を残してくれるおかげで、姿の見えない旅の全容が復元できるのです。

水産研究・教育機構などの調査では、日本沿岸で放流されたクロマグロが、約1年かけて日本南岸を北上・東進したのち、およそ2か月で太平洋を横断し、アメリカ西岸(サンディエゴ沖など)で再捕獲された事例が確認されました。わずか2か月で太平洋という巨大な海を渡りきる——この事実は、クロマグロの遊泳能力と持久力がいかに桁外れかを物語っています。しかも移動中は、昼は深く冷たい層へ潜り、夜は浅い層へ浮上するといった、上下方向の運動も繰り返していました。冷たい深層を使いこなせるのは、まさに体温を保つ能力があってこそです。

こうして、日本近海で生まれた若いクロマグロの一部が東部太平洋まで渡り、数年を過ごしてから再び日本方向へ戻る——という「太平洋横断回遊」の実態が明らかになりました。往復の総距離はおよそ8500kmに達すると見積もられています。地球規模で見れば、太平洋という巨大な海の東西を一匹の魚が行き来していることになります。

太平洋を横断するクロマグロの回遊ルートを示した地図イラスト
日本近海で生まれ、太平洋を横断して北米沖まで旅する太平洋クロマグロの回遊イメージ。
アーカイバルタグ(記録型標識)でクロマグロの移動を記録する仕組みの図解
記録型標識が残す水温・深度・光量のデータから、姿の見えない旅を復元する。

なぜ、そこまで移動するのか

長距離回遊の主な目的は、成長のためのエサ場の利用と、繁殖のための産卵場への回帰だと考えられています。若い時期はエサの豊富な海域を求めて広く動き回り、成熟すると産卵に適した暖かい海へ戻ってきます。海流や水温、餌となる小魚・イカの分布に応じて、最も効率のよい場所とタイミングを選んで移動していると見られます。

  • 産卵場:南西諸島〜台湾東方沖(4〜7月)と日本海南西部(7〜8月)
  • 回遊の一部は太平洋を横断し、東部太平洋(メキシコ・カリフォルニア沖)に達する
  • 東部太平洋で数年を過ごした後、成熟して西太平洋(日本近海)へ戻る個体がいる
  • 移動の駆動力は「エサ場の利用」と「産卵場への回帰」

ここがポイント

  • 太平洋クロマグロは日本近海で生まれる(主産卵場は日本の南と日本海)
  • 記録型標識で、太平洋を横断する大回遊が実証された
  • 往復の移動距離はおよそ8500kmに及ぶ

水温の異なる広大な海を自在に行き来できる背景には、クロマグロが「体温を自分で保てる」という、魚としては例外的な能力があります。次の章で、その心臓部ともいえる血管構造を見ていきましょう。

冷たい海でも動ける秘密——奇網という対向流熱交換

ほとんどの魚は「変温動物(外温性)」で、体温は周囲の水温とほぼ同じになります。冷たい海に入れば体も冷え、筋肉の動きは鈍くなります。ところがクロマグロは、深くて冷たい海に潜っても、体の内部(とくに泳ぐための筋肉)を海水温よりずっと高く保つことができます。これを可能にしているのが「奇網(きもう、ラテン語で rete mirabile/レーテ・ミラビレ)」という血管構造です。

奇網とは何か——動脈と静脈を密着させる「熱の交換所」

奇網は、非常に細い動脈と静脈が、たがいにごく近い距離で無数に並んで束になった構造です。動脈血と静脈血は互いに逆向きに流れます(対向流)。筋肉で運動によって温められた静脈血が心臓・えらの方向へ戻るとき、すぐ隣を流れてくる冷たい動脈血へ熱を受け渡します。こうして、せっかく温まった熱をえらから外へ逃がす前に、体の内側で「回収」してしまうのです。この仕組みを対向流熱交換(カウンターカレント熱交換)と呼びます。

奇網の対向流熱交換を示した血管の模式図
冷たい動脈血と温かい静脈血を密着させ、熱を体内で回収する奇網のイメージ。

その結果、クロマグロは泳ぐための筋肉の温度を周囲の海水温より高く保てます。研究によっては、活発に泳ぐクロマグロの深部体温が周囲の海水温より10℃前後も高くなる場合があると報告されています。とくに体の中心近くにある赤い筋肉(血合筋)は発熱源であり、この熱を奇網が逃がさず閉じ込めることで、体の芯が温かく保たれます。もし奇網がなければ、筋肉で生まれた熱は血液に乗ってえらへ運ばれ、そこで海水へ捨てられてしまいます(魚のえらは酸素を取り込む場であると同時に、熱を海へ逃がす『放熱器』でもあるのです)。奇網は、その「熱の流出」を水際で食い止める堤防のような役割を果たしているのです。

奇網は筋肉だけでなく、脳や眼のまわり、さらには肝臓の表面にも発達しています。脳や眼を温めておくと、暗く冷たい深海でも神経の反応速度が落ちにくく、獲物をすばやく捉えられます。また内臓(とくに肝臓)を温めておくことで、消化やホルモン・酵素のはたらきが活発になり、大量に食べたエサを効率よくエネルギーへ変えられると考えられています。体の各所に置かれた奇網は、それぞれの器官の性能を冷たい海でも維持するための、いわば「局所ヒーター」なのです。

「温かい体」がもたらす3つの利点

  1. 冷たい深い海に潜っても筋肉が冷えにくく、運動能力が落ちにくい(=広い水温帯を使える)
  2. 温かい筋肉は素早く強く収縮できるため、瞬発的な加速や持続的な高速遊泳に有利
  3. 内臓が温かいと消化・代謝が速く進み、大量のエサをエネルギーに変えやすい
特徴ふつうの魚(外温性)クロマグロ(内温性の一種)
体温海水温とほぼ同じ筋肉・内臓を海水温より高く保てる
冷たい海での活動動きが鈍くなりやすい運動能力を維持しやすい
熱を保つ仕組み特別な構造はもたない奇網(対向流熱交換)を発達させる
利用できる水温帯比較的狭い広い(深く冷たい海にも進出できる)
外温性の魚とクロマグロの体温のちがい。奇網が「温かい体」を支える。

「完全な恒温動物」ではない

クロマグロが体温を保つといっても、ヒトや鳥のように常に一定の体温を維持する「恒温動物」とは異なります。運動などで生じた熱を奇網で逃がさず活用する「地域内温性(局所的な内温性)」であり、体温は活動や環境の影響を受けて変動します。それでも、魚としては例外的に高い体温維持能力です。

収れん進化——同じ答えにたどり着いた生き物たち

体の一部を温める仕組みは、じつはクロマグロだけのものではありません。ネズミザメの仲間(ホホジロザメなど)やメカジキ、マンボウの一部にも、似たような血管の熱交換構造が独立に進化していることが知られています。系統的にはまったく別のグループが、「冷たい海で速く動く」という同じ課題に対して、そろって奇網という解決策にたどり着いたわけです。これは進化生物学でいう『収れん進化』の見事な実例で、体温を保つことが外洋の高速捕食者にとっていかに有利かを物語っています。

この体温を保つ力は、水温の異なる海を縦横に使いこなす大回遊の土台であると同時に、次章で見る「高速で泳ぎ続ける力」の源にもなっています。冷たい海でも筋肉が本来の力を発揮できるからこそ、クロマグロは獲物を追い、天敵を振り切り、そして太平洋を渡りきることができるのです。

なぜ高速で泳ぎ続けられるのか——遊泳の仕組みを解剖する

クロマグロは「海のスプリンター」と呼ばれますが、その速さには誤解も多くあります。しばしば「時速80km」「時速100km超」といった数字が語られますが、これらは瞬間的・理論的な最高速度の推定にすぎず、実測ではもっと控えめだと考えられています。実際、生物ロガーを使った研究では、マグロがそれほどの高速を長時間出し続けるわけではないことが指摘されています。

巡航速度は「もっとも燃費のよい速さ」

長距離回遊のときのクロマグロの巡航速度は、おおむね時速20〜40km程度と見られています。これは船でいう「経済速度」に近く、最小のエネルギーで最も長く進める、燃費の最適点にあたる速さです。もちろん、エサを追ったり天敵から逃げたりする瞬間には、これを大きく超える瞬発的なスピードを出せます。つまりクロマグロは、ふだんは省エネで巡航し、いざというときに爆発的な加速を見せる二段構えの泳ぎ手なのです。長い旅を乗り切るには、闇雲に速く泳ぐのではなく、いかに無駄なくエネルギーを使うかが決定的に重要になります。

二種類の筋肉を使い分ける

この使い分けを支えているのが、二種類の筋肉です。クロマグロの体には、持久力にすぐれた赤い筋肉(血合筋・赤筋)と、瞬発力を生む白い筋肉(普通筋・白筋)があります。赤筋は酸素を使ってじわじわとエネルギーを取り出し、長時間の巡航を支えます。一方の白筋は酸素をあまり使わずに一気に大きな力を出せるため、獲物を追う瞬間のダッシュや、天敵から逃げるときの急加速を担います。ふだんは赤筋でコツコツ泳ぎ、勝負どころで白筋を爆発させる——マラソンとスプリントの筋肉を一つの体に備えているようなものです。ちなみに、私たちが赤身として食べる部分の色の濃さは、この持久的な運動を支える赤筋に多く含まれる色素タンパク質(ミオグロビンなど)に由来します。マグロの身が赤いのは、休みなく泳ぎ続ける生き方そのものの現れなのです。

そして重要なのは、この赤筋こそが奇網によって温められている筋肉だという点です。温かい赤筋は化学反応(代謝)が速く進むため、より大きなパワーを効率よく出せます。体温を保つ仕組みと、長距離を泳ぎ続ける力は、こうして一つにつながっているのです。冷たい海で体が冷えてしまえば、いくら立派な筋肉があっても本来の力は出せません。奇網による保温は、遊泳性能を底上げする「隠れたエンジン」でもあるわけです。

クロマグロの巡航速度と瞬発速度を対比したグラフ風イラスト
ふだんは省エネの巡航、いざというときは瞬発的な加速——二段構えの泳ぎ。

止まれない体——ラムジェット換水

先に触れたように、クロマグロは口を開けて泳ぐことで水流をえらに送る「ラムジェット換水」に依存しています。そのため、一定以上の速度で泳ぎ続けないと十分な酸素を取り込めません。水族館でクロマグロを24時間観察すると、どの個体も一度も止まらず泳ぎ続けます。夜はやや速度を落とし、朝・昼・夕方はやや速く泳ぐといったリズムはあるものの、完全に停止することはありません。眠るときも泳ぎながら休んでいると考えられています。

  • ラムジェット換水:泳いで得た水流でえら呼吸する(=泳ぎ続けることが呼吸)
  • 赤い筋肉(血合):持久的な運動に強く、長距離巡航を支える
  • 奇網で温めた筋肉:低い水温でも収縮力を保ち、加速や高速遊泳に有利
  • 流線型の体と三日月形の尾:水の抵抗を減らし推進効率を高める

よくある誤解に注意

「マグロは時速100kmで泳ぐ」という説は広く出回っていますが、科学的な実測というより古い推定や誇張に近いものです。数字を鵜呑みにせず、巡航は時速20〜40km程度・最高速はそれより高い瞬発的なもの、と理解するのが実態に近いといえます。

クロマグロが休みなく泳ぎ続ける様子を示したイメージ
クロマグロは一生を通じて泳ぎ続ける。止まることは呼吸を止めることを意味する。

こうした「泳ぎ続ける体」は、生まれつき完成しているわけではありません。近年の研究で、体を温める力が発達する決定的なタイミングが分かってきました。次章では、クロマグロがいつ「温かい体」を手に入れるのかという、最新の発見を見ていきます。

若魚期に発達する「体を温める力」——最新研究が示すもの

クロマグロは生まれた瞬間から体温を保てるわけではありません。ごく小さな稚魚のうちは、他の多くの魚と同じように体温が水温に左右されます。では、いつ「温かい体」を手に入れるのか——これに答えを出したのが、東京大学などの研究チームが2025年に発表した成果です。

20〜40cmの若魚期に、産熱能力が一気に高まる

この研究によれば、クロマグロは全長おおむね20〜40cmほどの「若魚期」の初期に、体温を周囲より高く保つ能力(内温性)を急速に発達させます。具体的には、遊泳中の代謝速度、赤い筋肉(血合筋)の量、心臓の心室の重さといった、熱を生み出す力(産熱能力)に密接に関わる生理的な特徴が、この時期に特異的に増加していました。つまり、体を温めるためのエンジンと発熱装置が、若魚期にまとめて整えられるのです。

クロマグロの成長段階と体温を保つ力の発達を示した図
稚魚から若魚期にかけて、体を温める「エンジン」がまとめて発達すると考えられる。

この発見は、単に生理学として面白いだけではありません。若魚期は、まさにクロマグロが広い海域へと分散し、長距離回遊を始める時期にあたります。体を温める力がこのタイミングで整うことは、冷たい海へ進出し、太平洋を横断する旅に出るための「準備」が体の中で進んでいることを示しているとも読み取れます。装備が整うのを待って、はじめて未知の海へ乗り出す——そんな計算されたかのような成長のシナリオが、体の作りから見えてくるのです。

見方を変えれば、この若魚期はクロマグロにとって最も体が大きく作り変わる、いわば「変身」の時期でもあります。心臓の心室が大きくなって血液を力強く送り出せるようになり、赤い筋肉が増えて発熱と持久力が高まり、代謝そのものが底上げされる。この一連の変化がそろって起こることで、水温に左右される小さな稚魚から、自分の体温を武器にする外洋の遊泳者へと生まれ変わるわけです。基礎研究が一枚一枚めくってきたこうした事実の積み重ねが、クロマグロという生き物の全体像を少しずつ描き出しています。

研究が示した要点

  • 内温性は生まれつきではなく、全長20〜40cmの若魚期初期に急速に発達する
  • 代謝速度・血合筋の量・心室の重さといった産熱に関わる形質がこの時期に増える
  • 回遊を始める時期と、体を温める力が整う時期が重なる可能性

養殖や資源管理へのヒントにも

体温を保つ力がいつ・どのように発達するかが分かると、養殖でどの成長段階に手厚くケアすべきか、天然の若魚がどんな水温環境を必要とするか、といった実務的な判断にも活かせます。たとえば内温性が未完成な稚魚のうちは水温の急変に弱い可能性があり、その時期の飼育環境をきめ細かく管理することが生存率の向上につながるかもしれません。また、地球温暖化で海水温が上がると、産卵場や回遊ルートに使える海域がどう変わるのかを予測するうえでも、体温と水温の関係を知ることは重要な手がかりになります(関連:海洋温暖化と漁業)。

このように、一見すると純粋な好奇心から始まった基礎研究が、後半で見る資源管理や完全養殖といった応用の技術へと確かにつながっていきます。「クロマグロはいつ温かい体を手に入れるのか」という素朴な問いの答えが、この魚と長く付き合っていくための実用的な知恵になっていくのです。

激減から回復へ——太平洋クロマグロ資源管理の20年

これほど優れた回遊者であるクロマグロも、人間の漁業の前では無力でした。1990年代後半以降、とくに産卵前の小型魚(未成魚)の漁獲が増えたことなどから資源状況が悪化し、2010年前後には親魚(産卵できる成魚)の量が歴史的な低水準まで落ち込みました。一説には、初期の資源量のわずか数%程度まで減ったとも評価され、「このままでは資源が枯渇しかねない」という強い危機感が国際的に共有されました。世界中で人気が高まり需要が急増したことも、乱獲に拍車をかけた背景にあります。おいしくて価値が高いという魅力が、そのまま資源を追い詰める圧力にもなってしまったのです。

国際的な管理ルールと小型魚の漁獲制限

太平洋クロマグロは複数の国が漁獲する国際資源のため、中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)などの国際的な枠組みで管理されています。回遊魚は一つの国の海だけにとどまらないため、日本だけが規制してもアメリカやメキシコが獲りすぎれば意味がありません。だからこそ、関係する国々が同じテーブルで科学的な評価を共有し、足並みをそろえてルールを決めることが不可欠なのです。

資源回復に向けて導入されたのは、30kg未満の小型魚(未成魚)の漁獲量を2002〜2004年平均から半減させる、30kg以上の大型魚の漁獲を増やさない、といった厳しい措置でした。とりわけ重視されたのが、産卵に加わる前の若い魚を守ることです。まだ卵を産んでいない未成魚を大量に獲ってしまうと、将来生まれてくるはずの世代ごと失われ、資源の回復が決定的に遅れます。「小さいうちは獲らず、大きく育って産卵させてから」という考え方が、回復戦略の中心に据えられました。日本国内でも漁獲量に上限(漁獲枠)を設ける管理が進められました。

予定より13年早い回復目標の達成

こうした管理の効果は、数字にはっきり表れました。国際的な科学者組織(ISC)による資源評価では、2021年に「初期資源量の20%(約12.4万トン)まで親魚資源量を回復させる」という回復目標を達成したと示されました。これは目標としていた2034年よりも13年も早い達成です。最近年(2022年)の親魚資源量は約14.4万トンと推定され、資源は安全とされる水準まで戻ってきました。WWFジャパンはこれを、自然を回復軌道に乗せる「ネイチャーポジティブ」の好事例として紹介しています。獲りすぎで減った資源が、国際協調と我慢強い規制によって短期間で立ち直った——これは世界の漁業管理にとっても希望となる成功例です。

太平洋クロマグロの親魚資源量が低水準から回復するイメージのグラフ
厳しい漁獲制限を経て、親魚資源量は予定より早く回復目標を達成した。
区分従来の日本の漁獲枠2025年以降
大型魚(30kg以上)5,614トン8,421トン(約1.5倍)
小型魚(30kg未満)4,007トン4,407トン(約1.1倍)
資源回復を受け、2025年から漁獲枠が拡大された(日本の例)。数値は水産庁・報道による。

資源が回復したことを受けて、2025年からは漁獲枠が拡大されました。国際会議では、30kg以上の大型魚の年間漁獲枠を各国とも原則1.5倍に、小型魚は1.1倍に広げることで合意。日本の場合、大型魚の上限は5614トンから8421トンへ、小型魚は4007トンから4407トンへと増えます。ただし、増枠は「資源をふたたび減らしてよい」という意味ではなく、あくまで科学的評価にもとづいた慎重な管理の一環です。海洋温暖化が資源に与える影響も、今後の重要な論点になります(関連:海洋温暖化と漁業)。

一方で、国内では漁獲枠の配分をめぐる課題も残っています。大型の定置網や沖合漁業と、小規模な沿岸漁業者との間で枠の割り当てをどう公平に決めるか、意図せず枠を超えて獲ってしまった場合にどう対応するか——といった実務的な論点は、いまも議論が続いています。資源を守ることと、その資源で生計を立てる漁業者の暮らしを守ることの両立は、簡単に答えの出ない難しいテーマです。だからこそ、透明で納得感のあるルールづくりが求められています。

「増枠=獲り放題」ではない

漁獲枠の拡大は資源回復の成果ですが、乱獲に逆戻りすれば元の木阿弥です。資源評価は毎年更新され、状況が悪化すれば措置は見直されます。持続可能な利用には、科学的モニタリングと国際協調の継続が欠かせません。

世界初の完全養殖——近大マグロと事業化の現在地

天然資源を守りながらマグロを食べ続けるための切り札として期待されてきたのが「完全養殖」です。完全養殖とは、養殖した親魚から卵をとり、その卵を人工的にふ化させて育て、さらにその魚が産んだ卵からまた育てる——という循環を、天然の稚魚に頼らず人の手だけで完結させることを指します。これを世界で初めてクロマグロで成功させたのが、近畿大学水産研究所でした。

32年の挑戦——2002年の世界初成功

近畿大学は1970年にクロマグロの養殖研究を開始し、幾多の困難を経て、2002年6月に世界で初めてクロマグロの完全養殖に成功しました。研究開始からじつに32年。卵から成魚まで育つ生存率はごくわずかで、ある報告では0.0006%という極端な低さだったとされ、まさに奇跡的な達成でした。この養殖クロマグロは「近大マグロ」として知られ、2004年には世界初となる完全養殖クロマグロの出荷にもこぎつけました。

なぜこれほど難しかったのでしょうか。クロマグロの仔魚は非常にデリケートで、生け簀の壁にぶつかっただけで死んでしまったり、共食いをしたり、夜間の刺激で驚いて壁面に衝突(=衝突死)したりと、飼育には無数の壁が立ちはだかりました。卵から稚魚を育てるだけでも至難の業で、そこから産卵できる親魚にまで育て上げ、その親から採った卵で次の世代を得る——という循環を完成させるには、水温・エサ・光・水流のすべてを細かく制御するノウハウの蓄積が必要でした。半世紀にわたる地道な研究の積み重ねが、この難題を解いたのです。

クロマグロの完全養殖のサイクルを示した循環図
天然の稚魚に頼らず、人の手だけで世代をつなぐのが完全養殖。

研究から産業へ——量産化への道のり

研究としての成功と、安定した産業としての量産化はまた別の課題です。近畿大学は2010年から総合商社の豊田通商と連携し、量産化に取り組んできました。豊田通商は近畿大学から稚魚を仕入れ、50〜60cmの幼魚(ヨコワ)に育てて養殖業者へ販売する中間育成事業を展開。グループ会社のツナドリーム五島・ツナドリーム沖縄が完全養殖クロマグロを飼育し、それぞれ基準を満たしたものが「近大マグロ」として認定されています。研究室の成果を、全国の食卓に届く量とコストで安定的に生産する——この橋渡しには、大学と企業それぞれの強みを持ち寄る産学連携が欠かせませんでした。

沖の大型生け簀でクロマグロを養殖する様子のイメージ
沖合の大型生け簀で育つ養殖クロマグロ。完全養殖は天然資源への負荷を抑える切り札と期待される。
  • 1970年:近畿大学がクロマグロ養殖研究を開始
  • 2002年6月:世界初のクロマグロ完全養殖に成功(研究開始から32年)
  • 2004年:世界初の完全養殖クロマグロを出荷
  • 2010年〜:豊田通商と連携し量産化事業を推進(中間育成・飼育)

完全養殖が持つ意味

従来のマグロ養殖の多くは、天然の幼魚を捕まえて生け簀で太らせる「蓄養(畜養)」です。これは天然資源に依存します。一方、完全養殖は天然の稚魚を捕らなくても生産できるため、資源への負荷を抑えつつ供給を安定させられる可能性があります。ただしエサ・コスト・生存率などの課題は残り、技術のさらなる成熟が求められています。

わたしたち消費者にできることもあります。持続可能な方法で獲られた・育てられた水産物を選ぶこと、旬や資源状況を意識して魚を食べること、そしてクロマグロのような資源がたどってきた歴史を知ること。こうした一人ひとりの選択の積み重ねが、回復した資源を再び枯渇させないための大きな力になります。おいしく食べ続けるために、まず「知る」ことから始める——それが、この魚と長く付き合っていくための第一歩です。

資源管理(獲りすぎを防ぐ)と完全養殖(天然に頼らず育てる)は、クロマグロを持続的に利用するための車の両輪です。どちらか一方だけでは足りず、両方を進めることで初めて「食べ続けられる未来」が現実味を帯びてきます。こうした保全と利用の両立は、海洋保護区の考え方とも通じるテーマです。

まとめ——クロマグロが教えてくれる「海と生きる」科学

クロマグロは、太平洋を横断する大回遊者であり、奇網によって体温を保つ内温性の魚であり、省エネと瞬発を使い分ける高速遊泳者でもあります。そして、いったんは激減しながらも、国際的な資源管理によって回復軌道に乗り、世界初の完全養殖という技術にも支えられた——現代の海洋科学と水産のドラマを、一身に体現する存在です。

回復したとはいえ、クロマグロを取り巻く状況は決して安泰ではありません。海洋温暖化による産卵場や回遊ルートの変化、国ごとの漁獲枠をめぐる調整、そして完全養殖のコストやエサ問題など、乗り越えるべき課題は山積みです。それでも、いったんは歴史的低水準まで減った資源が、科学的な評価と国際協調によって予定より早く回復したという事実は、大きな希望です。正しい知識にもとづいて行動すれば、人と海の資源は共存できる——クロマグロはそのことを身をもって示してくれています。

一匹のマグロの体には、進化がつくり上げた驚くべき仕組みが詰まっています。その恵みを食べ続けるために、わたしたちは科学にもとづいた管理と技術開発を続ける責任を負っています。次に寿司屋やスーパーでクロマグロを目にしたとき、この魚がたどってきた8500kmの旅と、体の中で回収され続ける熱、そしてこの魚を守り育ててきた多くの研究者や漁業者の努力のことを、少し思い出してみてください。一皿の刺身の向こうには、広大な太平洋と、そこに生きる驚異の生命の物語が広がっているのです。

この記事のまとめ

  • 太平洋クロマグロは日本近海で生まれ、一部は太平洋を横断して往復約8500kmの大回遊をする
  • 奇網(対向流熱交換)で熱を体内に回収し、筋肉・内臓を海水温より高く保つ
  • 巡航は省エネの時速20〜40km程度、いざというとき瞬発的に加速する二段構えの泳ぎ
  • 体を温める力は若魚期(全長20〜40cm)に急速に発達する(2025年の研究)
  • 資源は2021年に回復目標(初期資源量の20%)を予定より13年早く達成し、2025年から漁獲枠が拡大
  • 近畿大学が2002年に世界初の完全養殖に成功し、資源管理と両輪で持続可能な利用を目指す

参考文献・出典

  1. 水産庁 – 特集 太平洋クロマグロの資源管理 クロマグロ食す・守る
  2. 水産研究・教育機構(FRA) – 令和6年度 国際漁業資源の現況 05 クロマグロ 太平洋
  3. 水産研究・教育機構(FRA) – アーカイバルタグによるクロマグロの渡洋回遊の実態
  4. 水産庁 – 太平洋クロマグロの資源管理について(審議会資料)
  5. WWFジャパン – WCPFC北小委員会会合2024閉幕 太平洋クロマグロ資源が安全水準まで回復
  6. 東京大学 大気海洋研究所 – クロマグロの若魚期初期における高い産熱能力が体温形成に寄与していることを発見
  7. 近畿大学 – クロマグロの完全養殖/完全養殖の成功
  8. ナショナル ジオグラフィック日本版 – 海の弾丸、マグロが高速で泳げる秘密とは
  9. 日本経済新聞 – クロマグロ漁獲枠1.5倍、国際会議で最終合意 25年から

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