深さ200メートルより下の海には、太陽の光はほとんど届きません。真っ暗で広大なその世界で、クジラやイルカ、多くの魚たちが「目」の代わりに頼っているのが音です。光は海水に数十メートルで吸収されてしまいますが、音は水中を空気中の約5倍の速さ(秒速およそ1500メートル)で、数百キロ、時には数千キロも伝わります。海は私たちが思う以上に「音でできた世界」なのです。
ところが、20世紀後半から人間はこの音の世界に、かつてない量の「雑音」を持ち込んできました。世界中を行き交う何万隻もの商船、海底の石油・ガスや鉱物を探すための爆発的な音、潜水艦を探す軍艦のソナー。研究者たちは、外洋の低い音(低周波音)の大きさが1950年から2007年にかけて10年ごとにおよそ3.3デシベル、つまりほぼ倍のペースで増え続けたと報告しています。
この「海洋騒音(水中騒音)」は、クジラやイルカの会話をかき消し、餌を探す邪魔をし、強いストレスを与え、時には集団座礁の引き金にもなると考えられています。この記事では、なぜ海の音がそこまで大切なのか、人間の何がそれを壊しているのか、そして海を再び静かにするために世界と日本で何が始まっているのかを、最新の研究をもとにやさしく解説します。
この記事で学べること
- 海は光がほとんど届かないため、クジラやイルカは「音」で会話・採餌・繁殖・子育てをしていること
- 海洋騒音の主な発生源は、商船のスクリュー音・資源探査のエアガン・軍事用ソナーの3つであること
- 騒音が音を覆い隠す「マスキング」により、クジラの会話できる範囲が最大7〜8割も奪われること
- 中周波の軍事ソナーがアカボウクジラの集団座礁と繰り返し関連づけられていること
- IMO(国際海事機関)のガイドライン、減速航行、静音船の設計など静音化の動きが始まっていること
- 私たち一人ひとりの消費や関心が、海を静かにする取り組みを後押しできること
海はもともと「音の世界」だった
海洋騒音問題を理解するには、まず「海の生きものにとって音がどれほど大切か」を知る必要があります。私たち人間は主に目で世界を捉えますが、海の中ではそのルールが通用しません。水は光をどんどん吸収してしまうため、澄んだ外洋でも太陽光が届くのはせいぜい水深200メートルまで。その下は永遠の暗闇が広がる世界です。地球の海の体積の大部分は、この暗黒の世界が占めています。
一方で、音は水中で驚くほどよく伝わります。海水中の音速は毎秒およそ1500メートルと空気中の約5倍。しかも減衰しにくいため、大型のクジラが出す低い声は、条件がよければ何百キロ、時に何千キロ先まで届くと考えられています。暗くて広い海で仲間と連絡を取り、餌や敵の位置を知り、繁殖相手を見つけるために、音は「海の共通言語」として進化してきたのです。
クジラとイルカ:声で会話し、音で「見る」動物たち
ハクジラの仲間であるイルカやマッコウクジラ、アカボウクジラは、高い周波数のクリック音を発射し、その反射(こだま)を聞き分けて周囲の様子を把握する「エコーロケーション(反響定位)」を使います。真っ暗な深海でも、獲物のイカや魚の形・大きさ・距離を音だけで正確に捉えられるのはこの能力のおかげです。いわば、彼らは音で「世界を見て」いるのです。
一方、ザトウクジラやシロナガスクジラなどのヒゲクジラの仲間は、非常に低い周波数の「歌」でコミュニケーションします。シロナガスクジラの声は人間の耳では聞き取れないほど低く、地球上でもっとも大きな声を出す動物のひとつとされます。この低い声は遠くまで届くため、広い海に散らばった仲間や繁殖相手とつながるための命綱になっています。回遊の謎については、関連するクジラの回遊の不思議を追った記事もあわせてご覧ください。

魚も甲殻類も、実は音を使っている
音を使うのはクジラだけではありません。多くの魚は浮き袋を震わせて音を出し、群れの維持や繁殖、なわばりの主張に使います。産卵期に特定の音を出す魚も多く、その合唱が「海の合唱(フィッシュ・コーラス)」として知られています。テッポウエビ(パチンエビ)のはさみが鳴らすパチパチという音は、サンゴ礁や岩礁のにぎやかな「音の風景(サウンドスケープ)」をつくり出しています。
さらに、生まれたばかりの魚やサンゴの幼生が、健全なサンゴ礁が発するにぎやかな音を頼りに「住むべき場所」を探して泳いでくることも分かってきました。海の音は、生きものの分布や生態系の再生そのものにも関わっているのです。サンゴ礁の再生についてはサンゴ礁再生の取り組みを解説した記事も参考になります。逆に言えば、健全な音の風景が失われた海は、次の世代の生きものが「ここに住もう」と判断する手がかりまで失ってしまうということです。
なぜ海では音がそんなに遠くまで届くのか
海で音がよく伝わる理由は、水という物質の性質にあります。空気に比べて水は密度が高く、分子どうしが密に詰まっているため、振動(=音)が効率よく次々に伝わっていきます。この結果、水中の音速は空気中の約5倍、しかもエネルギーが減りにくいのです。さらに深い海には、音を屈折させて遠くまで運ぶ「深海音波チャンネル(SOFARチャンネル)」と呼ばれる層があり、そこに入った低い音は、まるで光ファイバーの中を進む光のように、地球の反対側近くまで届くことすらあります。
この「音が遠くまで届く」という海の性質は、クジラにとっては何百キロ先の仲間とつながれる恵みである一方で、人間の騒音にとっても同じことが言えます。たった一隻の船やひとつの音源が、想像以上に広い海域を「騒がしく」してしまう。海が音をよく伝えるという長所が、そのまま海洋騒音問題を深刻にする理由にもなっているのです。
まず押さえるポイント
- 海は光がほとんど届かず、音が「共通言語」として発達した世界である
- クジラ・イルカは音で会話し、音で周囲を「見て」いる
- 魚や甲殻類も音でコミュニケーションし、幼生は音で住む場所を選ぶ
- だからこそ、人間が持ち込む騒音は生態系全体に影響しうる
人間が海に持ち込んだ騒音の正体
海洋騒音(水中騒音)とは、人間の活動によって海中に生み出される音のことです。自然界にも雷や波、地震、生きものの声といった音はありますが、20世紀後半以降、人間由来の音が急激に増え、海全体の「音の環境」を大きく変えてしまいました。主な発生源は、大きく3つに分けられます。それぞれ音の性質も、生きものへの影響の仕方も異なります。
1. 商船のスクリュー音(もっとも常時的な騒音)
海洋騒音のなかで、量・範囲ともにもっとも大きな影響を持つのが、世界中を行き交う商船が出す音です。貨物船やタンカーが海を進むとき、船尾のスクリュー(プロペラ)が高速で回転すると、水中に無数の小さな泡が生まれてはじける「キャビテーション(空洞現象)」という現象が起こります。この泡がはじける音が、船の水中騒音の主な正体です。加えてエンジンや発電機の振動も船体を通じて海に伝わります。
商船が出すのは主に数十〜数百ヘルツの低い音で、これはシロナガスクジラやナガスクジラといったヒゲクジラの声とちょうど重なる帯域です。低い音は遠くまで届くため、たった一隻の大型船でも周囲数十キロの海を「騒がしく」してしまいます。しかも商船は世界の海に常時何万隻も存在するため、その音は途切れることなく海に満ち続けます。

2. 資源探査の「エアガン」(爆発的な断続音)
海底の石油やガス、鉱物資源を探すために行われるのが「地震探査(反射法探査)」です。船が海面近くで圧縮空気を一気に噴き出す「エアガン(エアーガン)」を数十基まとめて発射し、海底へ強力な音波を打ち込みます。海底の地層で反射して戻ってくる音を解析することで、地下の構造を調べるのです。この探査は、探査船が数週間から数か月にわたり、数秒〜十数秒おきに繰り返し発射しながら海域を往復します。
エアガンが出す音は非常に大きく、発射源の近くでは200デシベル(水中の基準)を超えるとされ、しかも長距離を伝わります。研究では、こうした爆発的なパルス音が発射地点から遠く離れた場所でも検出され、遠方のクジラの行動に影響を与えうることが報告されています。実際、スペイン沖の調査では、地震探査の期間中にナガスクジラの発声が減少したことが確認されています。
3. 軍事用ソナー(強力で指向性の高い音)
軍艦が潜水艦を探すために使う「アクティブソナー(能動ソナー)」も、強力な人為騒音源です。特に潜水艦探知に使われる中周波アクティブソナー(MFAS)は、1960年代から各国の海軍で使われてきました。ソナーは目的の方向へ強い音のビームを放つため、その進路上にいるクジラには非常に大きな音として届きます。後述するように、この中周波ソナーはアカボウクジラなどの集団座礁と繰り返し関連づけられており、もっとも深刻な影響が指摘される騒音源のひとつです。
そのほかの発生源
- 洋上風力発電などの海洋構造物を建てるときの杭打ち(パイルドライビング)工事の打撃音
- 港湾や航路をつくるための浚渫(しゅんせつ)・掘削作業
- 海底ケーブルやパイプラインの敷設工事
- 小型のプレジャーボートや高速船が沿岸で出す音
| 騒音源 | 音の性質 | 主な周波数帯 | 主な影響 |
|---|---|---|---|
| 商船(スクリュー) | 常時・広範囲 | 低周波(数十〜数百Hz) | ヒゲクジラの会話を慢性的にかき消す |
| 資源探査エアガン | 爆発的・断続 | 低〜中周波 | 遠方まで届き行動・発声を乱す |
| 軍事ソナー | 強力・指向性 | 中周波 | パニック・座礁の引き金になりうる |
| 建設・杭打ち | 打撃的・局所 | 広帯域 | 近距離で聴覚損傷・忌避を起こす |
「デシベル」の注意点
水中の音のデシベル(dB)は、空気中とは基準(1マイクロパスカル)が異なり、同じ数字でも空気中とは意味が違います。水中の200dBを空気中の値とそのまま比べることはできません。この記事の数字は、あくまで海中どうし・同じ条件どうしの比較として読んでください。
海の騒音はどれだけ増えたのか
では、人間の活動によって海の音は実際にどれくらい増えたのでしょうか。長期の観測データから、その増加は「じわじわ」どころではないことが分かっています。米カリフォルニア沖などで数十年分の水中音を分析した研究によれば、外洋の低周波の背景音(ずっと鳴っている環境音)は、1950年から2007年にかけて10年あたりおよそ3.3デシベルの割合で増加しました。
デシベルは対数で表す単位のため、3デシベルの増加はおおよそ「音のエネルギーが倍」になることを意味します。つまり海の低い音は、この半世紀ほどのあいだ10年ごとに倍増を重ねてきた計算になります。1960年代以降で見ると、80ヘルツ以下の低周波の背景音は10〜12デシベルも増えたという推計もあり、これは世界の商船隊が大きく増えた時期と一致します。

「マスキング」がクジラの世界を狭くする
騒音が増えることの怖さは、単に「うるさい」だけではありません。背景の音が大きくなると、その中に埋もれてしまって聞こえなくなる音が出てきます。これを「マスキング(かき消し)」と呼びます。人間でいえば、静かな部屋なら遠くの小さな声も聞こえるのに、騒がしい駅のホームでは目の前の相手の声すら聞き取りにくくなるのと同じです。
クジラにとってマスキングは、会話できる相手との距離、つまり「音でつながれる範囲(コミュニケーション空間)」が縮むことを意味します。船の騒音が増えるほど、仲間や繁殖相手に声を届けられる距離は短くなります。ある研究では、船の交通量が多い米東海岸の海洋保護区で、絶滅が心配されるタイセイヨウセミクジラが会話できる範囲(コミュニケーション空間)の6〜7割が失われていたと報告されています。シロナガスクジラのように低い声で遠くの仲間とつながるヒゲクジラほど、この影響を強く受けると考えられています。
さらに深刻なのが、絶滅が心配されるタイセイヨウセミクジラの事例です。米国のケープコッド湾では、人間の騒音によってセミクジラの音響生息域(音でやりとりできる海域)が最大で80%も奪われたと報告されています。声で仲間を探し、繁殖相手を見つける動物にとって、これは生存と繁殖に直結する深刻な問題です。
数字で見る海洋騒音の深刻さ
- 低周波の背景音:1950〜2007年に10年あたり約3.3dB上昇(ほぼ倍増ペース)
- 1960年代以降、80Hz以下の背景音は10〜12dB増加した推計も
- シロナガスクジラのコミュニケーション空間:交通量の多い海域で最大70%喪失
- タイセイヨウセミクジラの音響生息域:ケープコッド湾で最大80%喪失
海の騒音は、クジラから「声の届く範囲」そのものを奪っていく。静かな海では数百キロ先の仲間とつながれた声が、騒がしい海ではほんの数キロしか届かなくなる。
― 海洋音響研究の知見より
騒音は「経済の鏡」でもある
興味深いことに、海の騒音レベルは世界経済の動きと連動することが分かっています。研究者たちは、海運の量が景気とともに増減するため、海中の背景音の大きさが世界経済の指標をほぼなぞるように変化することを示しました。景気がよくモノがたくさん運ばれる時期には海は騒がしくなり、不況で貿易が落ち込むと海は少し静かになる。海の音は、まるで人間社会の経済活動を映す鏡のようになっているのです。
これは裏を返せば、海洋騒音が私たちの日々の消費や物流と地続きであることを意味します。海の向こうから届く衣類や食品、電子機器の多くは船で運ばれます。私たちの暮らしそのものが、遠い海のクジラの「会話環境」に影響しているのです。海洋騒音問題は、海だけの問題ではなく、経済と暮らしの問題でもあります。
クジラ・イルカに何が起きるのか
海洋騒音が海の生きものに与える影響は、聴覚の一時的・恒久的な損傷から、行動の変化、採餌の中断、繁殖の妨げ、慢性的なストレスまで、幅広く報告されています。ここでは、研究で明らかになってきた代表的な4つの影響を見ていきましょう。
1. 会話がかき消される(コミュニケーション妨害)
前の章で見たマスキングによって、クジラは仲間や繁殖相手に声を届けにくくなります。その結果、動物たちは無意識に声を張り上げようとします。これは人間が騒がしい場所で大声になるのと同じ「ロンバード効果」と呼ばれる反応です。オーストラリア沖のザトウクジラを調べた研究では、背景音が1デシベル上がるごとに歌の音量をおよそ1.5デシベル大きくしていたことが分かりました。
しかし、声を張り上げるのはただではありません。大きな声を出すにはより多くのエネルギーが必要で、それでも限界があります。騒音がある一定を超えれば、いくら頑張って声を出しても届かなくなります。会話がうまくいかなければ、群れの結束、繁殖、子育て、危険の共有といった、クジラの社会生活そのものが揺らいでしまうのです。

2. 餌を探せなくなる(採餌の妨害)
ハクジラの仲間はエコーロケーションで獲物を探すため、周囲が騒がしいと餌を見つける効率が落ちます。またヒゲクジラも、騒音源を避けて餌場から離れたり、餌を食べる時間そのものが減ったりします。船の接近で採餌行動を中断することも観察されており、これが続けば栄養状態や繁殖成功率の低下につながりかねません。回遊しながら餌を追うクジラにとって、餌場の環境変化は死活問題です。海の温暖化による漁場の変化については海水温上昇と漁業への影響をまとめた記事もあわせてお読みください。
採餌の妨害は、じわじわとクジラの体力を削っていきます。前章で紹介したバンクーバー港の調査では、船の速度を落として海を静かにしただけで、シャチが餌を探せない「失われた採餌時間」が2割以上減ったと報告されました。これは逆に言えば、騒がしい海ではそれだけの採餌チャンスが日常的に奪われているということです。餌が十分に取れなければ、子どもを産み育てる余力も失われ、個体数の回復が難しくなっていきます。

3. 慢性的なストレスがかかる
海洋騒音がクジラに与えるストレスを、はっきりと示した有名な研究があります。2001年9月11日の米同時多発テロ事件の直後、北米東海岸では船舶の運航が一時的に大きく減りました。カナダのファンディ湾で活動していた研究チームは、この期間に海中の騒音が約6デシベル(特に150ヘルツ以下の低周波で)低下したことを記録していました。
そして偶然にも、同じ海域のタイセイヨウセミクジラのふんに含まれるストレス関連ホルモン(グルココルチコイド)を分析していたところ、船が減って静かになったこの時期に、ストレスホルモンの値が有意に低下していたことが分かったのです。これは、低周波の船舶騒音がクジラに慢性的なストレスを与えている可能性を示した、世界で初めての証拠とされています。
船の往来が減り海が静かになった数日間、セミクジラのストレスホルモンは目に見えて下がっていた。騒音が絶えずクジラを緊張させ続けていたことを、この偶然のできごとが物語っている。
― Rolland ほか(2012年)の研究より
4. 聴覚の損傷とパニック
杭打ち工事やソナーのように近距離で非常に強い音にさらされると、クジラやイルカは一時的、あるいは恒久的に聴覚を損なうことがあります。音で世界を捉える動物にとって、聴覚を失うことは視覚を失うのに等しい致命傷です。また、強い音に驚いてパニックを起こし、急激な行動の変化を取ることもあり、これが次章で述べる座礁につながる場合があります。
騒音がクジラに与える4つの影響
- コミュニケーション妨害:会話できる範囲が縮み、繁殖・子育て・群れの維持が難しくなる
- 採餌の妨害:餌を見つけにくくなり、栄養・繁殖にも悪影響
- 慢性ストレス:低周波の船舶騒音がストレスホルモンを上げる(9.11の自然実験で確認)
- 聴覚損傷とパニック:強い音で耳を傷め、驚いて異常行動を取る
軍事ソナーと座礁の関係
海洋騒音がもたらす影響のなかでも、もっとも劇的で痛ましいのが「集団座礁(マス・ストランディング)」です。健康なクジラが何頭も同時に浜に打ち上げられ、多くが命を落とすこの現象。すべての座礁が騒音のせいというわけではありませんが、一部の集団座礁は軍事用ソナーとの強い関連が科学的に指摘されています。
アカボウクジラ:もっとも騒音に弱い深海のダイバー
特に敏感なのが、アカボウクジラ(オウギハクジラ類)の仲間です。彼らは水深1000メートルを超える深海まで潜り、長時間の潜水を繰り返してイカなどを捕らえる、極端な深海性のクジラです。この繊細な潜水生活を送る種が、潜水艦探知に使われる中周波アクティブソナー(MFAS)にとりわけ弱いことが分かっています。
研究によると、強いソナー音にさらされたアカボウクジラは、通常の潜水パターンを乱し、餌を捕るのをやめて音から急いで静かに逃げ去る行動を取ります。問題は、驚いて急浮上したり潜水パターンが乱れたりすると、体内の窒素がうまく排出されず、血液や関節に気泡が生じる「潜水病(減圧症)」に似た深刻な損傷を負うおそれがあることです。人間のダイバーが急浮上で潜水病になるのと同じ原理です。

繰り返されてきた座礁事例
中周波ソナーとクジラの座礁の関連は、1960年代にこの種のソナーが導入されて以降、世界各地で記録されてきました。バハマ、カナリア諸島、ギリシャ、イタリアなどで、海軍の演習に伴う集団座礁が繰り返し報告されています。なかでも有名なのが、2000年3月にバハマ諸島で起きた事例です。米海軍のソナー演習の数時間以内に十数頭のクジラ(多くがアカボウクジラ)が浜に打ち上げられ、その多くが命を落としました。米政府の調査は後に、中周波ソナーが座礁のもっとも可能性の高い原因と結論づけています。
西太平洋のマリアナ諸島でも、多国間の対潜水艦戦演習が中周波ソナーを使って繰り返し行われてきた海域で、2006年から2019年の間に8件のアカボウクジラの座礁が確認されています。時期や場所が演習と重なることから、研究者はソナーとの関連を強く疑っています。こうした事例の積み重ねが、いまや「決定的証拠に近い」と評価されるようになっています。
座礁は「氷山の一角」かもしれない
見落としてはならないのは、浜に打ち上げられて発見される座礁は、影響を受けた個体のごく一部にすぎない可能性です。沖合でソナーに驚いて損傷を負い、そのまま海中で命を落とした個体は、私たちの目には触れません。深海で暮らすアカボウクジラは、もともと生きた姿を観察するのが難しい種でもあります。つまり、記録された座礁の背後には、数えきれない「見えない被害」が隠れているかもしれないのです。
こうした懸念から、各国の海軍でも配慮の動きが出ています。演習前にクジラがいないか監視する、いきなり最大出力を出さず段階的に音を強める、特に敏感な海域や時期には演習を避けるといった対策です。ただし安全保障と海洋生物保護のバランスは難しく、国際的なルールづくりは今も途上にあります。軍事という性質上、情報が公開されにくいことも、実態の把握を難しくしています。
| 時期・海域 | できごと | 関連が疑われる要因 |
|---|---|---|
| 2000年3月・バハマ | クジラ十数頭(多くがアカボウクジラ)が座礁、多くが死亡 | 米海軍の中周波ソナー演習の数時間以内 |
| 2006〜2019年・マリアナ諸島 | アカボウクジラの座礁8件 | 多国間の対潜ソナー演習が繰り返された海域 |
| 各地(1960年代以降) | ソナー演習に伴う集団座礁が複数 | 中周波アクティブソナー(MFAS) |
なぜソナーで座礁するのか
- アカボウクジラは深海に潜る繊細なダイバーで、中周波ソナーに特に敏感
- 強い音に驚くと採餌をやめ、通常の潜水パターンを乱して急浮上する
- 急浮上により潜水病(減圧症)に似た損傷を負い、命を落とすことがある
- 演習の時期・海域と座礁が繰り返し一致し、関連が強く疑われている
日本の海と海洋騒音
海洋騒音は遠い海の問題ではありません。日本列島は世界有数の海運国であり、東京湾や大阪湾、瀬戸内海、そして太平洋沿岸には多くの船が行き交います。四方を海に囲まれ、多くのクジラ・イルカが回遊・生息する日本の海も、当然この問題と無縁ではありません。
日本でも毎年多くの座礁が起きている
海に生きるはずのクジラやイルカが、生きたまま、あるいは死んで海岸に打ち上げられる「ストランディング(座礁・漂着)」は、日本の海岸でも毎年300件以上起きているとされます。国立科学博物館は、こうした個体の情報を集めた「海棲哺乳類データベース」を整備し、全国のストランディング事例を記録・研究しています。研究者たちは座礁個体を解剖し、死因や生態を調べる地道な作業を続けています。
座礁の原因は病気、老衰、餌を追っての迷い込み、地形、そして人間活動などさまざまで、そのすべてが騒音によるものではありません。しかし、座礁した個体を詳しく調べることは、海で何が起きているのかを知る貴重な手がかりになります。研究者はしばしば「ストランディング個体は情報の宝庫」と表現します。海の異変を知らせてくれる、海からのメッセージなのです。
日本ではこうした調査を、国立科学博物館をはじめとする研究機関やボランティアのネットワークが支えています。海岸で座礁・漂着した個体が見つかると、専門家が駆けつけて種類や性別、年齢、胃の中身、体の傷や病変を丹念に記録します。これらのデータが積み重なることで、日本近海のクジラ・イルカの生態や、彼らが直面している脅威の全体像が少しずつ見えてきます。市民が浜辺で見つけた一頭の報告が、海洋研究の一歩になるのです。

日本近海の騒音源
日本の海における人為騒音の主な発生源も、世界共通の商船・工事・探査です。特に近年は、洋上風力発電の導入が国を挙げて進められており、風車の基礎を海底に打ち込む杭打ち工事の騒音が、周辺のクジラや魚に与える影響への関心が高まっています。再生可能エネルギーの拡大は温暖化対策として重要ですが、建設時の騒音対策との両立が課題になっています。
また、海洋保護区(MPA)を活用して生きものの生息環境を守る取り組みも、静かな海を残すうえで重要です。保護区の考え方については海洋保護区(MPA)のしくみを解説した記事もあわせてご覧ください。騒音の少ない「静かな海域」を意識的に残すことは、これからの海洋保全の新しいテーマになりつつあります。
日本近海には、ザトウクジラが繁殖のために回遊してくる沖縄・小笠原の海や、多様なイルカ・クジラが見られる海域が数多くあります。ホエールウォッチングは各地で人気の観光資源にもなっていますが、観察船が近づきすぎたり増えすぎたりすれば、それ自体がクジラへの騒音・ストレス源になりかねません。生きものを楽しみながら守るために、船の速度や接近距離を定めたルールづくりも各地で進められています。海の恵みを次の世代につなぐには、「見る」ことと「守る」ことの両立が欠かせません。

日本の海の現状メモ
- 日本の海岸では年間300件以上のストランディングが記録されている
- 国立科学博物館が全国の海棲哺乳類・座礁情報のデータベースを整備
- 座礁個体の解剖調査は海の異変を知る貴重な手がかり
- 洋上風力の杭打ち工事など、新しい騒音源への対策も課題に
海を静かにする取り組みの最前線
ここまで海洋騒音の深刻さを見てきましたが、明るい話もあります。プラスチックや化学物質による汚染と違い、騒音は「音源を止めれば海はすぐに静かに戻る」という大きな特徴があります。船が止まれば、その海はほぼ瞬時に静けさを取り戻します。だからこそ、対策の効果が早く、そして確実に現れるのです。世界では今、海を静かにするためのさまざまな取り組みが始まっています。
IMO(国際海事機関)のガイドライン
国際的な船舶ルールを決める国連の専門機関・IMO(国際海事機関)は、2023年に「船舶からの水中放射騒音を低減するためのガイドライン(改訂版)」を承認しました。これは船の設計・運航・整備の各段階で水中騒音を減らすための指針で、造船会社や船主、機器メーカーなど幅広い関係者に向けたものです。あわせて、実際の適用を通じて知見を集める「経験蓄積フェーズ」も始まっています。まだ義務ではなく任意ですが、業界が対応しなければ将来的に義務化が検討される可能性も指摘されています。
減速航行:もっとも手軽で効果的な方法
船をゆっくり走らせる「減速航行(スローダウン)」は、いますぐできて効果が高い対策として注目されています。スクリューの回転を抑えればキャビテーションが減り、水中騒音が下がるからです。カナダのバンクーバー港が主導するECHOプログラムは、絶滅が心配される南部個体群のシャチ(サザンレジデント)を守るため、ハロー海峡で商船に自主的な減速を呼びかけてきました。
2017年の取り組みでは、速度目標を11ノットとし、水先案内船の約61%が参加。その結果、海域の騒音が中央値でおよそ1.7デシベル低下し、シャチが餌を探せない「失われた採餌時間」が約22%も減ったと報告されています。船の速度を落とすだけで、これだけの改善が得られるのです。この成功を受けて、取り組みは翌年以降も継続・拡大されています。減速は燃料節約や二酸化炭素削減にもつながるため、環境と経済の両面でメリットがあります。

静かな船を「設計」する
そもそも音が出にくい船をつくる取り組みも進んでいます。ポイントは、騒音の主因であるスクリューのキャビテーションをいかに抑えるかです。次のような工夫が有効とされています。
- 泡が出にくい形状のプロペラを設計する(低キャビテーション・プロペラ)
- エンジンや発電機を防振ゴムなどで支え、振動を船体に伝えない
- 船体形状を工夫して水の流れをスムーズにする
- プロペラをこまめに整備・清掃し、傷や付着物による騒音悪化を防ぐ
船級協会(船の安全性を評価する機関)は、こうした静音化の水準を満たした船に「静音船」の認証を与える仕組みも整えつつあります。もともとは静かさが命の海洋調査船で培われた技術が、一般の商船にも広がり始めているのです。
資源探査・工事での配慮
エアガンを使う資源探査や、杭打ち工事の現場でも、影響を減らす工夫が取り入れられています。工事の周りを気泡のカーテンで囲んで音の広がりを抑える「バブルカーテン」、いきなり最大出力にせず徐々に音を強めてクジラに逃げる時間を与える「ソフトスタート」、そしてクジラがいないか監視員が見張り、いれば作業を止める運用などです。

監視と予測の技術も進む
近年は、海中にマイク(水中聴音器=ハイドロフォン)を設置してクジラの声をリアルタイムで検知し、船に「この先にクジラがいます」と知らせて減速や回避を促す仕組みも実用化が進んでいます。人工衛星による船舶の位置情報とクジラの回遊データを組み合わせ、衝突や騒音の危険が高い海域を予測して航路を調整する試みも始まりました。船とクジラの衝突(シップストライク)を防ぐこうした技術は、騒音対策とも相性がよく、両方を同時に減らせる可能性を持っています。
こうした取り組みに共通するのは、「海のどこで、いつ、どれだけの音が出ているか」を見える化することの大切さです。かつて海の音は測りにくく、対策も後回しにされがちでした。しかし観測技術とデータ解析が進んだいま、海洋騒音は「見えて、測れて、減らせる」問題になりつつあります。これは海を守るうえで、とても大きな前進です。
海を静かにする主な対策
- IMOガイドライン:船の設計・運航・整備で水中騒音を減らす国際指針(2023年改訂)
- 減速航行:船をゆっくり走らせるだけで騒音が下がり、燃料もCO2も削減
- 静音船の設計:低キャビテーションのプロペラや防振で音の出にくい船に
- 探査・工事の配慮:バブルカーテン、ソフトスタート、監視員による中断
まとめ:静けさは、取り戻せる
海は光ではなく音でできた世界であり、クジラやイルカ、魚たちは音を頼りに会話し、餌を探し、繁殖し、子育てをしてきました。そこへ人間が持ち込んだ船・探査・ソナーの騒音は、この半世紀で海の低周波音を10年ごとに倍増させ、クジラの会話できる範囲を最大7〜8割も奪い、慢性的なストレスを与え、時には集団座礁の引き金にもなってきました。
けれども、騒音はほかの汚染と違い、音源を止めれば海はすぐに静けさを取り戻します。IMOのガイドライン、減速航行、静音船の設計、工事現場での配慮など、対策はすでに動き始め、その効果も実証されています。9.11後にわずか数日で海が静かになりクジラのストレスが下がったように、私たちの選択次第で海はもっと静かになれるのです。
遠い海の話に思えるかもしれませんが、私たちが日々使うモノの多くは船で運ばれ、海洋開発は私たちの暮らしとつながっています。海の騒音問題を知り、静かな海を守る取り組みを応援すること。それが、暗く広い海で音を頼りに生きるクジラたちへの、私たちからの答えになります。
この記事のまとめ
- 海は光が届かない「音の世界」で、クジラ・イルカは音で会話し、音で周囲を見ている
- 主な海洋騒音源は商船のスクリュー音・資源探査のエアガン・軍事ソナーの3つ
- 低周波の海の騒音は1950年以降10年ごとに約3.3dB上昇し、会話できる範囲を最大7〜8割奪った
- 中周波の軍事ソナーはアカボウクジラの集団座礁と繰り返し関連づけられている
- 騒音は音源を止めれば海がすぐ静かに戻るため、減速航行やIMOガイドラインなど対策の効果が早い
- 私たち一人ひとりの関心と選択が、静かな海を取り戻す力になる
参考文献・出典
- IMO(国際海事機関) – Ship noise(船舶からの水中放射騒音低減ガイドライン 2023年改訂)
- NOAA Fisheries(米海洋大気庁 漁業局) – Beaked Whale Strandings in the Mariana Archipelago May Be Associated with Sonar
- The Royal Society(英国王立協会) – Co-occurrence of beaked whale strandings and naval sonar in the Mariana Islands (Proceedings B, 2020)
- Rolland ほか(Proceedings of the Royal Society B / PMC) – Evidence that ship noise increases stress in right whales(2012)
- Scientific American – Noise Reduces Ocean Habitat for Whales(マスキングと音響生息域の喪失)
- Frontiers in Marine Science – The Effects of Ship Noise on Marine Mammals—A Review(2019)
- Vancouver Fraser Port Authority(バンクーバー港湾局) – ECHO Program(減速航行によるシャチ保護の取り組み)
- 国立科学博物館 – 海棲哺乳類情報データベース(標本・ストランディング資料)
- 笹川平和財団 海洋政策研究所 – Ocean Newsletter「鯨類のストランディングと日本における対応」
- IFAW(国際動物福祉基金) – Ocean Noise Pollution Explained
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