⚡ 本文要点
地球の陸地のわずか3%を占める泥炭地に、なぜ世界の土壌炭素の3割が眠っているのか。数千年かけた蓄積の仕組みと、排水・火災で一気に放出される脆さを、最新データで読み解く。
海の話をしているのに、なぜ「泥炭地」なのか——そう思われるかもしれない。だが泥炭地の多くは河口の後背湿地や沿岸低地に広がり、マングローブ林や塩性湿地と地続きの「水と炭素の物語」を持つ生態系だ。地球の陸地のたった3%を占めるにすぎないのに、世界の土壌に蓄えられた炭素の30%以上がこの薄い水浸しの土地に眠っている。
泥炭地は森林でも草原でもない。枯れた植物が完全に分解されないまま、何千年もかけて積み重なった「泥炭」という有機物の層そのものが、巨大な炭素の貯蔵庫になっている。健全な状態であれば、泥炭地は数千年単位で炭素を閉じ込め続ける安定した炭素シンクだ。
しかし、農地開発や排水路の建設で水位が下げられた瞬間、この均衡は崩れる。空気に触れた泥炭は急速に分解され、蓄積してきた炭素をCO2として大気に返してしまう。本記事では、泥炭地がなぜこれほどの炭素を蓄えられるのか、そしてその脆さがどれほどの規模の排出につながっているのかを、一次データから読み解く。
この記事で学べること
- 泥炭地とは何か、湿原・湿地との違い
- 陸地のわずか3%が土壌炭素の3割を蓄える仕組み
- 排水・農地転換・火災で炭素が放出されるメカニズム
- 2015年インドネシア泥炭火災が示した規模のインパクト
- 日本の泥炭地(釧路湿原など)が抱える課題
- 泥炭地を再湿地化して炭素を守る国際的な取り組み
泥炭地とは何か:湿原・湿地との違い
「泥炭地」とは、枯れた植物の遺骸が水に浸かった嫌気的(酸素の少ない)環境で分解しきれずに堆積し、厚さ数十センチ〜数メートルの「泥炭」という有機物層を形成した土地を指す。湿原や湿地の中でも、この泥炭層を持つものだけが泥炭地に分類される。
分解が止まる仕組み
通常、枯れた植物は微生物によって分解され、含まれる炭素は比較的早くCO2として大気に戻る。しかし常に水で満たされた泥炭地では酸素が乏しく、分解を担う好気性微生物の活動が大きく抑制される。その結果、植物遺骸は「半分解」の状態のまま積み重なり続け、泥炭という形で炭素が固定されていく。完全に酸素が絶たれるわけではないため、ごく緩やかな嫌気性分解は進行するが、そのペースは地上での通常の分解に比べて桁違いに遅い。この「遅さ」こそが、数千年という時間をかけた炭素蓄積を可能にしている。
興味深いことに、泥炭地は炭素を蓄積する一方で、微量ながらメタン(CH4)を大気中に放出してもいる。メタンはCO2よりも温室効果が強いガスであるため、健全な泥炭地が気候に与える正味の影響を評価する際には、CO2の吸収とメタンの放出の両方を差し引きして考える必要がある。それでもなお、長期的に見れば健全な泥炭地は正味で気候を冷却する方向に働くというのが、多くの研究で一致した見解だ。
熱帯泥炭・寒帯泥炭・沿岸泥炭
- 寒帯・亜寒帯泥炭(ミズゴケ主体):北方林・ツンドラ帯に広がり、世界の泥炭地の大部分を占める
- 熱帯泥炭湿地林:東南アジア(インドネシア・マレーシア)に集中し、樹木由来の厚い泥炭層を持つ
- 沿岸・後背湿地の泥炭:河口部の低地に形成され、マングローブ林や汽水域と隣接することが多い
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- 沿岸域の炭素貯蔵という観点では、河口や汽水域の生態系も泥炭地と深く関わる。汽水域とは何か|生きものと河口堰の影響も参考にしてほしい。
泥炭地に生きる植物
泥炭地を形成する主役はミズゴケ(スファグナム)の仲間だ。ミズゴケは自らの体内に大量の水を保持できるスポンジ状の構造を持ち、枯れた後もその構造が分解されにくいまま残る。さらにミズゴケが分泌する酸によって周囲の水は強い酸性となり、これが微生物の分解活動をさらに抑制するという、泥炭が積み重なるための「自己強化的な仕組み」を作り出している。寒帯・亜寒帯の泥炭地の多くはこのミズゴケ主体の「高層湿原」と呼ばれるタイプに分類される。
一方、熱帯泥炭湿地林では、ミズゴケではなく樹木そのものが泥炭の主原料になる。倒木や落葉・落枝が冠水した土壌の上に積み重なり、酸素の乏しい環境で数千年かけて分解を免れながら泥炭層を形成する。そのため熱帯泥炭は寒帯泥炭に比べて樹木由来の粗い有機物を多く含み、地下水位がわずかに下がるだけでも急速に乾燥・分解が進みやすいという特徴を持つ。
低層湿原・中間湿原・高層湿原
泥炭地は水や養分の供給源によって、さらに細かく分類される。河川水や地下水の影響を強く受け、養分が比較的豊富な「低層湿原」、地表からの給水のみに依存し養分に乏しい「高層湿原」、そしてその中間的な性質を持つ「中間湿原」だ。釧路湿原のように広大な泥炭地では、これら複数のタイプが場所によって入り混じって分布していることも珍しくない。
陸地3%が土壌炭素3割を占める理由
IUCN(国際自然保護連合)や国連環境計画(UNEP)が公表しているデータによれば、泥炭地は地球の陸地面積のわずか3%を占めるに過ぎないが、世界の土壌炭素の30%以上を蓄えているとされる。これは、他のあらゆる植生タイプが持つ炭素量を合計したよりも多い量だ。

「薄いのに大量」の理由
森林の炭素は主に地上部の樹木(バイオマス)に蓄えられ、伐採や火災で比較的短期間に失われやすい。一方、泥炭地の炭素は地下の泥炭層そのものに、数千年という時間スケールで蓄積されている。泥炭の堆積速度は年間1mm前後とされ、厚さ数メートルの泥炭層は数千年〜1万年以上かけて形成されたものだ。この「時間の蓄積」こそが、面積あたりの炭素密度を極めて高くしている。

森林との比較
| 生態系 | 面積割合(陸地) | 蓄積炭素の特徴 |
|---|---|---|
| 泥炭地 | 約3% | 地下の泥炭層に数千年分が蓄積。攪乱に極めて弱い |
| 熱帯林 | 約7%(森林全体では約31%) | 地上部バイオマスが中心。伐採で急速に失われる |
| 土壌全体(非泥炭) | 残り大部分 | 泥炭地以外の土壌が持つ炭素量は相対的に薄く広い |
地球規模の炭素循環における位置づけ
地球全体の炭素は、大気・海洋・陸上生態系・地中(化石燃料など)の間を絶えず循環している。健全な泥炭地はこの循環の中で、大気中のCO2を植物が光合成で取り込み、それが分解されずに土壌へと固定される「炭素の一方通行路」として機能してきた。海洋が数百〜数千年スケールで炭素を深層に蓄えるのと同じように、泥炭地は陸上において数千年スケールで炭素を「時間の彼方」へ隔離する数少ない自然システムのひとつだ。
この蓄積は非常に緩やかである一方、放出は一瞬で起こりうるという非対称性が泥炭地の最大の特徴といえる。数千年かけて積み上げてきた炭素の貯金が、排水や火災によって数十年、時には数週間という短い期間で取り崩されてしまう。気候変動対策として森林の新規植林がしばしば議論されるが、泥炭地についてはむしろ「これ以上崩さない」という既存ストックの保全が、新たな吸収源づくり以上に優先度の高い課題だと指摘する研究者は多い。
排水と農地転換:均衡が崩れる瞬間
泥炭地の炭素貯蔵が成立するのは、常に水で満たされ酸素が遮断されている間だけだ。農地・パーム油プランテーション・植林のために排水路を掘り、水位を下げると、それまで水中にあった泥炭層が空気にさらされる。すると好気性微生物による分解が一気に進み、数千年かけて蓄積された炭素がCO2として放出され始める。
世界の劣化状況
国連環境計画(UNEP)の「Global Peatlands Assessment」(2022年)などによれば、世界の泥炭地の半分以上が排水・農地転換・火災などによって劣化状態にあるとされる。劣化した泥炭地からのCO2排出量は、世界の人為起源温室効果ガス排出量の約4%に相当すると推計されている(研究・算定手法によっては3〜5%程度の幅がある)。劣化泥炭地が占める面積は世界の陸地のわずか0.3〜0.4%程度にすぎないにもかかわらず、これほど大きな排出源になっている点が泥炭地問題の核心といえる。
推計値には研究機関や算定手法によって幅がある。例えば劣化泥炭地からのCO2排出量を年間約1.2〜1.9ギガトンとする研究もあれば、より広い範囲の劣化を含めて算定する研究もある。この幅は、衛星データや現地調査でどこまで正確に「劣化した泥炭地」を特定できるかという技術的な限界を反映したものであり、算定手法の標準化と精緻化が国際的な研究課題として続けられている。
面積と排出量のギャップ
- 劣化泥炭地:世界の陸地面積の約0.3〜0.4%
- そこからの排出:世界の温室効果ガス排出量の約4%
- 面積比で見ると、他の土地利用の10倍以上の排出密度になる
インドネシア・東南アジアの熱帯泥炭
東南アジアの熱帯泥炭湿地林は、パーム油やアカシアのプランテーション開発のために大規模に排水されてきた。乾燥した泥炭は非常に燃えやすく、一度火がつくと地下深くまで燻り続け、消火が極めて難しい「泥炭火災」を引き起こす。
排水がもたらす「地盤沈下」という副作用
泥炭地の劣化は炭素放出だけでなく、物理的な地盤沈下という形でも表れる。泥炭の大部分は水分であり、排水によって水位が下がると泥炭そのものが収縮・圧密し、地表面が年間数センチ単位で沈下していく。東南アジアの沿岸部に広がる泥炭地では、この沈下によって農地や集落が海面より低くなり、高潮や洪水のリスクが年々高まっている地域もある。炭素の問題と防災上の問題が、同じ排水という原因から同時に進行している点も見落とせない。
農業利用と炭素放出のジレンマ
排水された泥炭地は、いったん農地として利用可能になると、地域住民や企業にとって重要な収入源になる。パーム油やアカシア(製紙原料)のプランテーションは東南アジアの経済を支える基幹産業のひとつであり、単純に「排水を禁止する」だけでは地域経済への影響が大きい。そのため近年は、水位を保ったまま栽培できる代替作物への転換や、既存プランテーションの水位管理を義務付ける規制強化など、経済活動と炭素保全を両立させる方策が模索されている。
インドネシア政府は2016年以降、新規の泥炭地開発を原則禁止するモラトリアム(一時停止)措置や、既存プランテーション企業に対して水位を一定以上に保つことを義務付ける規制を段階的に導入してきた。企業側も、認証制度を通じた持続可能なパーム油調達への対応を迫られており、原料の生産地が泥炭地の適切な水位管理下にあるかどうかが、国際的な取引条件のひとつとして重視されるようになっている。
2015年インドネシア泥炭火災が示した規模
強いエルニーニョ現象で乾季の乾燥が深刻化した2015年、インドネシアでは大規模な泥炭・森林火災が発生した。国立環境研究所(NIES)が旅客機・貨物船による大気観測データを解析した結果、2015年9〜10月の約2か月間だけで、東南アジア島嶼部の泥炭・森林火災から放出された炭素は約273テラグラム(炭素換算)にのぼると報告されている。これは日本の年間CO2排出量に匹敵する量が、わずか2か月で放出された計算になる。
この観測が示した重要な点は、地上観測だけでは捉えきれない広域の排出量を、旅客機や貨物船に搭載した観測機器のデータから割り出せるようになったことだ。従来、泥炭火災による排出量の推計はモデル計算に依存する部分が大きく、実際の大気中濃度の変化とどこまで一致するかが課題だった。民間航空機の巡航データを活用した観測網の拡充は、今後も泥炭火災のような突発的で広域にわたる排出イベントを、より正確かつ速やかに把握する手段として期待されている。

「世界第3位の排出国」という指摘
国際湿地保全連合(Wetlands International)による分析をきっかけに、森林火災と泥炭分解によるCO2排出を合算するとインドネシアが米国・中国に次ぐ世界有数の温室効果ガス排出国に位置づけられるとの見方が、世界銀行のレポートや国内外の環境NGOにも取り上げられてきた。この評価には算定方法による幅があるものの、泥炭火災が国レベルの排出量を左右しうる規模であることを示す象徴的な事例だ。
健康・経済への影響
- 煙害(ヘイズ)がマレーシア・シンガポールなど周辺国にも拡大し、広域の呼吸器疾患リスクを高めた
- 空港閉鎖・休校など経済活動への直接的な打撃も繰り返し発生している
- 泥炭火災は地下で燻り続けるため、地表の消火活動だけでは鎮火が難しい
その後の対策と現在の状況
2015年の大規模火災を受け、インドネシア政府は2016年に泥炭地の保全・回復を専門に担う「泥炭回復庁(BRG)」を設立した(2021年にマングローブ復興も統合し、現在は「泥炭・マングローブ復興庁(BRGM)」に改組されている)。排水路をせき止めるダム状構造物の設置や、住民参加型の湿地維持プログラムなどが各地で実施され、その後の乾燥年においても2015年ほどの規模の火災は抑えられている年が多い。ただし、エルニーニョに伴う乾燥が強い年には依然として大規模な火煙が発生することがあり、監視体制の維持が継続的な課題となっている。
越境大気汚染としての側面
泥炭火災による煙害(ヘイズ)は一国内にとどまらない問題でもある。インドネシアで発生した煙は季節風に乗ってマレーシアやシンガポールにまで到達し、周辺国の学校が休校になったり、空港の視界不良でフライトが欠航したりする事態が繰り返されてきた。東南アジア諸国連合(ASEAN)では、越境ヘイズ問題への対応として国境をまたいだ情報共有や消火協力の枠組みづくりも進められている。
日本の泥炭地:釧路湿原と保全の現在地
日本にも泥炭地は存在する。代表例が北海道東部に広がる釧路湿原で、湿原本体の面積は約2万2,000ヘクタール(湖沼含む)とされ、日本最大の湿原だ。これを含む釧路湿原国立公園の指定区域は約2万8,700ヘクタールにおよぶ。表層には泥炭層が堆積しており、その下には貝の化石を含む地層が続くことから、かつて海だった場所が徐々に陸化・湿原化してきた歴史がうかがえる。
ラムサール条約と国立公園指定
釧路湿原は1980年に日本で初めてラムサール条約登録湿地となり、1987年には国内28番目の国立公園に指定された。環境省を中心に、湿原面積の減少に歯止めをかけ、現状を維持することを目標とした保全事業が続けられている。
釧路湿原にはタンチョウやオジロワシ、キタサンショウウオなど希少な野生生物が生息しており、泥炭地としての機能と生物多様性保全の役割が重なり合っている点も特徴だ。特別天然記念物であるタンチョウは、一時は絶滅寸前まで個体数が減少したが、湿原の保全とともに生息数を回復させてきた象徴的な存在として知られる。泥炭地の保全が単に炭素貯蔵の観点だけでなく、生態系全体の保全とも一体であることを示す好例といえる。
関連記事
- 日本の湿地保全の考え方についてはラムサール条約のワイズユースとは|湿地と暮らす日本で詳しく解説している。
農地開発と湿原縮小の歴史
釧路湿原は明治期以降、周辺の農地開発や河川改修に伴う排水の影響で面積が縮小してきた経緯がある。近年は湿原に流入する土砂の抑制や、直線化された河川を蛇行状態に戻す「再蛇行化」など、自然再生事業を通じて泥炭湿原としての機能回復が図られている。
釧路湿原以外の国内泥炭地
北海道にはこのほかにも、サロベツ原野(稚内市・豊富町など)や霧多布湿原(浜中町)といった大規模な泥炭湿原が点在する。本州でも尾瀬ヶ原(群馬・福島・新潟県境)など高地の湿原に泥炭層が形成されている例があり、いずれも国立公園やラムサール条約登録湿地として保全の対象となっている。日本列島は全体として温暖湿潤な気候のため泥炭地の総面積自体は世界的に見て大きくないが、北海道の泥炭地は明治以降の開拓の歴史とも深く結びついている点で特徴的だ。
土地改良と泥炭地の農業利用
北海道の泥炭地の多くは、明治期以降の開拓政策の中で客土(他所から土を運び入れる工法)や排水路の整備によって水田・畑地へと転換されてきた歴史を持つ。これにより広大な農地が生み出された一方で、湿原そのものの面積は大きく減少した。現在では、残された泥炭湿原を「これ以上減らさない」という方針のもと、湿原周辺の緩衝地帯の設定や、河川からの土砂流入を抑える対策など、開発と保全のバランスを取る取り組みが続けられている。
沿岸域とのつながり:マングローブ・ブルーカーボンとの関係
熱帯泥炭湿地林は多くの場合、河口部や沿岸低地に形成され、マングローブ林や塩性湿地と隣接・連続している。マングローブ林や海草藻場など沿岸生態系が蓄える炭素は「ブルーカーボン」と呼ばれ、近年国際的にも脱炭素の手段として注目が高まっている。

泥炭地とブルーカーボンの違い
環境省などの整理では、ブルーカーボン生態系(マングローブ林・海草藻場・塩性湿地・干潟)は主に海水・汽水の影響下にある生態系を指すのに対し、泥炭地はより広く陸域・淡水域を含む概念として扱われる。ただし沿岸の後背湿地では両者が重なり合い、明確に線引きできないケースも多い。海洋政策・気候変動政策の両面から、こうした「陸と海の境界にある炭素貯蔵地」への関心が高まっている。
東南アジアの一部の熱帯泥炭湿地林は、河口部でマングローブ林と直接隣接し、上流側の泥炭湿地から流れ出す水がマングローブ域の栄養循環にも影響を与えていると考えられている。こうした陸から海への物質の流れは「陸海連結性(land-sea connectivity)」と呼ばれ、泥炭地の保全がその上流だけでなく、下流にあたる沿岸生態系全体の健全性にも波及する可能性を示唆している。
関連記事
- 沿岸生態系の炭素貯留機能についてはマングローブ林が果たす炭素貯留と防災の役割も合わせて読んでほしい。
海面上昇と沿岸泥炭地の脆弱性
沿岸低地に広がる泥炭湿地は、海面上昇や高潮の影響を陸域の中でも特に受けやすい生態系だ。塩水が浸入すると、それまで淡水環境に適応していた植生や微生物群集のバランスが崩れ、泥炭の分解速度が変化することが研究で指摘されている。気候変動による海面上昇が進めば、沿岸泥炭地の炭素貯蔵機能そのものが脅かされる可能性があり、陸と海の両方の気候政策から目配りが必要な領域になっている。
国際的な統計・分類上の課題
泥炭地とブルーカーボン生態系は管轄する国際的な統計・政策の枠組みが異なる場合が多く、両方にまたがる沿岸泥炭湿地がどちらの統計にも十分に反映されないという「制度の隙間」が指摘されることがある。IPCCの温室効果ガス排出量算定ガイドラインでは、湿地に関する章(Wetlands Supplement)で泥炭地とマングローブ林の双方を扱っているが、各国の温室効果ガスインベントリ(排出量目録)への反映状況にはばらつきがあるのが実情だ。
泥炭地を守る国際的な取り組み
泥炭地の重要性が国際的に認識される中、保全と再生に向けた枠組みづくりが進んでいる。
Global Peatlands Initiative
国連環境計画(UNEP)が中心となって設立した「Global Peatlands Initiative」には、各国政府・研究機関・国際NGOなどが参加し、世界の泥炭地の分布把握(マッピング)と保全政策の推進を進めている。2022年には包括的な現状評価「Global Peatlands Assessment」が公表され、劣化状況と対策の必要性がまとめられた。この評価は、これまで国ごとにばらばらだった泥炭地の定義や統計基準をできるだけ統一し、地球規模で比較可能なデータを整備しようとする試みでもある。
気候変動枠組条約(UNFCCC)のもとでの各国の削減目標(NDC)にも、近年は湿地・泥炭地の保全を明記する国が増えている。特に広大な熱帯泥炭を抱えるインドネシア・コンゴ民主共和国・ペルーなどは、泥炭地保全を自国の温室効果ガス削減計画の重要な柱のひとつとして位置づけるようになった。泥炭地の保全は、森林減少・劣化に由来する排出を減らす国際的な枠組み「REDD+」とも密接に関連づけて議論されている。
再湿地化(リウェッティング)
排水された泥炭地の水位を人為的に戻す「再湿地化(リウェッティング)」は、炭素放出を抑える最も直接的な対策とされる。欧州の一部地域では、排水された泥炭地で水位を管理しながら農業を行う「パルダカルチャー(paludiculture)」と呼ばれる湿地農業も試みられている。
再湿地化は一度実施すればすぐに効果が出るわけではない。水位を戻した直後は、それまで蓄積されていた植物遺骸の一部がなお分解を続けるため、炭素放出がしばらく継続することもある。長期的な炭素バランスの改善には数年から数十年単位の時間がかかるとされ、短期的な成果だけで評価するのではなく、腰を据えたモニタリングが欠かせない。ドイツやオランダなど欧州の排水された泥炭地では、農業生産と再湿地化の折り合いをどうつけるかが政策論争の的にもなっている。
パルダカルチャーでは、ヨシやガマ、スゲといった湿地に自生する植物を、断熱材・バイオマス燃料・紙原料などとして活用する試みが進んでいる。従来の乾燥した農地としての利用に比べると単位面積あたりの収益性で見劣りする場面もあるが、炭素放出を抑えながら一定の経済価値を生み出せる点で、泥炭地の「出口戦略」のひとつとして注目されている。
| 対策 | 内容 | 効果 |
|---|---|---|
| 再湿地化 | 排水路を塞ぎ水位を回復させる | 分解の停止・炭素放出の抑制 |
| 火災管理 | 乾燥期の監視・早期消火体制の強化 | 泥炭火災による大量排出の防止 |
| パルダカルチャー | 湿地を維持したまま栽培可能な作物へ転換 | 農業と炭素貯蔵の両立 |
衛星モニタリングの進展
泥炭地は広大かつ遠隔地に分布することが多く、現地調査だけで全体像を把握するのは難しい。近年は人工衛星による合成開口レーダー(SAR)データを使い、地表のわずかな沈下・隆起を面的に検出することで、排水の進行状況や再湿地化の効果を広域にわたって継続的に監視する研究が進んでいる。こうした衛星モニタリング技術は、政策の効果検証や違法な排水・伐採の早期発見にも活用され始めている。
地表面の変位をミリメートル単位で捉える干渉SAR(InSAR)解析は、泥炭地研究において特に威力を発揮する技術のひとつだ。同じ地点を繰り返し観測した衛星データを比較することで、排水後にどれだけの速度で地盤が沈下しているか、あるいは再湿地化によって沈下が止まったかを、広域にわたって定量的に把握できる。この手法は現地に頻繁に調査員を派遣することが難しい遠隔地の泥炭地でも継続的なモニタリングを可能にし、保全政策の効果を客観的なデータで検証する基盤になっている。
カーボンクレジットとしての可能性
泥炭地の保全・再湿地化によって抑制された温室効果ガス排出量を、カーボンクレジット(排出削減量の証書)として取引する枠組みも国際的に整備されつつある。適切な手法で算定・検証されれば、泥炭地保全は企業の気候変動対策への貢献と、地域住民の収入確保を両立させる手段になりうる。一方で、算定方法の信頼性や、保全効果が本当に長期間持続するかという「永続性」の検証が課題として指摘されており、制度設計の透明性を高める議論が続けられている。

まとめ:見えない炭素庫をどう守るか
泥炭地は地表からは目立たない、地味な湿地に見える。しかしその地下には、数千年という時間をかけて蓄積された膨大な炭素が眠っており、ひとたび排水や火災で均衡が崩れれば、短期間で大気中に放出されてしまう。陸地のわずか3%という面積の小ささが、かえってこの生態系の重要性を際立たせている。
私たちにできること
泥炭地は多くの人にとって日常から遠い存在に感じられるかもしれない。しかし、パーム油を含む食品・化粧品の原材料調達や、園芸用の「ピートモス(泥炭を原料とする土壌改良材)」の利用など、消費活動を通じて間接的に泥炭地の劣化と関わっている場面は少なくない。持続可能性に配慮した認証(RSPO=持続可能なパーム油のための円卓会議など)を受けた製品を選ぶことや、ピートフリーの園芸用土を選択することは、消費者レベルでできる関わり方のひとつだ。
また、釧路湿原をはじめとする国内の泥炭地では、観光や自然体験を通じてその価値を知る機会も用意されている。木道を歩き、地下に眠る泥炭層の存在に思いを馳せることは、遠い東南アジアの泥炭火災のニュースを自分ごととして捉え直すきっかけにもなるだろう。
この記事のポイント
- 泥炭地は陸地の3%で世界の土壌炭素の30%以上を蓄える
- 水位低下による分解と火災が炭素放出の二大要因
- 2015年インドネシアの泥炭火災は日本の年間排出量に匹敵する規模だった
- 日本の釧路湿原など泥炭地の保全も国際的な湿地保全の一部
- 再湿地化やパルダカルチャーなど水位管理が保全の鍵
参考文献・出典
- IUCN Issues Brief: Peatlands and climate change – 泥炭地と気候変動に関する国際自然保護連合の解説
- UNEP Global Peatlands Assessment 2022 – 国連環境計画による世界の泥炭地現状評価
- UNEP: Peatlands store twice as much carbon as all the world's forests – 国連環境計画による泥炭地の炭素貯蔵量に関する解説記事
- 国立環境研究所:東南アジアの泥炭・森林火災が日本の年間放出量に匹敵するCO2をわずか2か月間で放出 – 2015年インドネシア泥炭火災の観測データ分析
- 環境省 釧路湿原国立公園 概要 – 釧路湿原国立公園の概要・保全計画
- 環境省:ブルーカーボンとは – 沿岸生態系の炭素貯留機能に関する環境省の解説
- Nature Communications: The underappreciated potential of peatlands in global climate change mitigation strategies – 泥炭地の気候変動緩和における役割に関する学術論文
※ 信頼性の高い順に配列:政府機関・学術機関 > 査読済み論文 > 専門機関 > 信頼できるメディア