⚡ 30秒でわかる答え
- ワイズユースとは、湿地を閉ざして守ることではなく、生態系の特徴を保ったまま人が持続的に利用し続けること。条約が1971年の採択当初から掲げてきた中心概念です。
- 日本の登録湿地は2025年7月の猪苗代湖で54か所・166,134haに。干潟・湖・湿原だけでなく、水田やサンゴ礁、地下水系まで含まれます。
- 谷津干潟・藤前干潟は市民運動が埋め立てを止めて登録につながり、蕪栗沼や円山川では農業と共存する形で渡り鳥やコウノトリが戻ってきました。
- 世界では1970年以降に湿地の22%が失われ、今も年0.52%ずつ減少中。登録は「ゴール」ではなく「賢く使い続ける約束」の始まりです。
ラムサール条約のワイズユース(賢明な利用)とは、湿地の生態学的な特徴を保ちながら、人がその恵みを持続的に使い続けることです。「自然保護」と聞くと立入禁止の柵を思い浮かべがちですが、この条約が1971年の採択以来ずっと掲げてきたのは、その正反対の発想でした。湿地は漁業や農業、観光、そして渡り鳥の中継地として人と生きものが共に使う場所であり、使い方を賢くすることこそが保全になる——それがワイズユースの考え方です。
日本には2025年7月時点で54か所、合計166,134haのラムサール条約湿地があります。北海道の釧路湿原から沖縄のサンゴ礁まで、そこには都市に残された小さな干潟、冬に水を張る田んぼ、シジミ漁で生計を立てる汽水湖、1万羽を超えるツルが越冬する農地など、人の暮らしと切り離せない水辺が数多く含まれています。
この記事では、条約の定義と登録基準を押さえたうえで、谷津干潟・藤前干潟・蕪栗沼・円山川・宍道湖・出水といった日本の現場で、ワイズユースが実際にどう行われてきたのかを数字と経緯で読み解きます。あわせて、Global Wetland Outlook 2025が示す世界の湿地の危機と、登録後にも続く課題、そして私たち一人ひとりにできることまでを整理します。
この記事で学べること
- ラムサール条約が定める「ワイズユース(賢明な利用)」の正確な意味と、なぜ「立入禁止にして守る」だけではないのか
- 日本の登録湿地54か所の内訳と、登録に必要な9つの国際基準(水鳥2万羽・個体群の1%など)
- 東アジア・オーストラリア地域フライウェイ(22か国・5,000万羽超)における日本の干潟の役割
- 谷津干潟・藤前干潟で市民が埋め立てを止め、名古屋市のごみ政策まで変えた経緯
- 蕪栗沼の「ふゆみずたんぼ」と豊岡のコウノトリに見る、農業と湿地保全の両立モデル
- 登録後も湿地が劣化する理由と、Global Wetland Outlook 2025が示す世界の湿地の現在地
- 訪ねる・食べる・記録する——私たちが日常でできるワイズユースの実践
ワイズユースとは何か——「守る」と「使う」を両立させる条約の核心
ラムサール条約は、正式には「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」といい、1971年2月2日にイランのラムサールで採択された、世界で最も古い多国間環境条約のひとつです。日本は1980年に加入し、同年に釧路湿原を国内第1号として登録しました。締約国は170か国を超え、登録湿地は2025年時点で世界に2,500か所以上、面積は合計約260万平方キロメートルに達します。
条約の3つの柱
環境省はこの条約の役割を「3つの柱」として説明しています。第一に保全(国際的に重要な湿地をリストに登録し、生態学的特徴を維持する)、第二にワイズユース(登録の有無にかかわらず、自国内のすべての湿地を賢明に利用する)、第三に国際協力(渡り鳥のように国境をまたぐ生きものや水系について各国が協力する)です。3本のうち2本目が「使う」ことを前提にしている点が、他の自然保護の枠組みと大きく異なります。
「賢明な利用」の定義はどう決まったか
ワイズユースという言葉は条約本文の第3条にすでに登場しますが、その中身は締約国会議(COP)で少しずつ具体化されてきました。1987年の第3回締約国会議(COP3)で最初の定義が採択され、2005年のCOP9で現在の形に整理されています。現行の定義は、次のような趣旨です。
湿地の賢明な利用とは、持続可能な開発の文脈のもと、生態系アプローチの実施を通じて、湿地の生態学的特徴を維持することである。
― ラムサール条約 COP9決議IX.1 附属書A(2005年)の定義を要約
ここで鍵になるのが「生態学的特徴(ecological character)」です。これは、その湿地を特徴づける生態系の構成要素・プロセス・恵み(生態系サービス)の組み合わせを指し、条約はこれが人為的に損なわれることを「生態学的特徴の変化」と呼んで、締約国に報告義務を課しています。つまりワイズユースとは、漁も農業も観光も続けてよいが、その湿地らしさの土台を壊さない範囲で行うという約束なのです。
なぜ「使う」ことが条約に書き込まれたのか
1971年当時、条約の主な関心は水鳥の生息地としての湿地でした。しかし起草に関わった人々は、湿地の多くが漁場・牧草地・水源として地域社会に使われている現実を知っていました。人の利用を全面的に排除する制度では、当事者である地域が保全に協力する理由を失います。そこで条約は、登録湿地の保全とあわせて、締約国が「自国内の湿地をできる限り賢明に利用する」よう計画を立てることを第3条で求めました。半世紀を経て、この発想は「生態系サービス」「持続可能な開発」「自然に基づく解決策(NbS)」といった現代の概念と重なり、2025年7月にジンバブエのビクトリアフォールズで開かれた第15回締約国会議(COP15)でも、湿地の価値評価と再生のための資金をどう確保するかが中心議題になりました。
湿地の恵みは、水鳥の生息地にとどまりません。洪水時に水を一時的にためて下流の被害を和らげる、上流から流れてきた窒素やリンを植物や微生物が取り込んで水を浄化する、泥炭やマングローブとして大量の炭素を貯め込む、魚介類の産卵場や稚魚の生育場になる——こうした働きが、漁業・農業・防災・観光という形で地域に還元されます。ワイズユースとは、この還元の回路を壊さずに回し続けることだといえます。
ワイズユースを一言でいうと
- 「使わない」ではなく「壊さない使い方をする」
- 対象は登録湿地だけでなく、自国内のすべての湿地
- 判断の物差しは「生態学的特徴が維持されているか」
- 地域の人が湿地の恵みを受け取り続けることが、保全の動機になる
条約全体の成り立ちや湿地の定義については、姉妹記事「ラムサール条約湿地とは?日本54か所の広がりと水を浄化し命を育む湿地の力」で詳しく解説しています。本記事では、その「使い方」の部分に焦点を絞ります。
日本の登録湿地54か所——166,134haに広がる多様な水辺
日本のラムサール条約湿地は、2025年7月15日に福島県の猪苗代湖(10,960ha)が加わって54か所、合計面積は166,134haになりました。登録は締約国会議のタイミングに合わせて進み、2012年のCOP11で9か所、2015年のCOP12で4か所、2018年のCOP13で2か所、2022年のCOP14で1か所、そして2025年のCOP15で1か所という流れです。

「湿地」の幅広さ——干潟から水田、サンゴ礁まで
条約のいう湿地は、湿原や湖沼だけではありません。低潮時の水深が6mを超えない海域も含まれるため、干潟や藻場、サンゴ礁も対象になります。さらに人工的な水域も除外されないので、水田やため池も登録の対象です。日本の54か所を大まかに分けると、次のような顔ぶれになります。
| 湿地のタイプ | 代表的な登録地 | 特徴・人との関わり |
|---|---|---|
| 湿原・泥炭地 | 釧路湿原(北海道)、尾瀬(群馬・福島・新潟) | タンチョウの繁殖地、木道による観光利用 |
| 湖沼・汽水湖 | 琵琶湖(滋賀)、宍道湖・中海(島根・鳥取)、猪苗代湖(福島) | 伝統漁法、シジミ漁、飲料水源 |
| 河口干潟・内湾干潟 | 谷津干潟(千葉)、藤前干潟(愛知)、東よか干潟(佐賀)、漫湖(沖縄) | シギ・チドリの中継地、都市近郊の環境学習 |
| 水田・農地を含む湿地 | 蕪栗沼・周辺水田(宮城)、円山川下流域・周辺水田(兵庫)、出水ツルの越冬地(鹿児島) | ふゆみずたんぼ、コウノトリ育む農法、ツルの越冬 |
| マングローブ・サンゴ礁 | 漫湖(沖縄)、慶良間諸島海域(沖縄) | エコツーリズム、ダイビング |
| 地下水系 | 秋吉台地下水系(山口) | 鍾乳洞に生きる固有の生きもの |
登録に必要な9つの国際基準
どんな湿地でも登録できるわけではなく、条約は「国際的に重要な湿地」を見分ける9つの基準を定めています。日本ではこれに加えて、国内法(自然公園法や鳥獣保護管理法など)で将来にわたり保全が担保されていること、そして地元自治体や住民の登録への賛意があることを条件にしています。この「地元の賛意」という国内条件こそ、日本の登録湿地がワイズユースと切り離せない理由です。
登録までの流れも、ワイズユースを前提に組み立てられています。環境省が候補地の科学的な価値を整理し、地元の自治体・漁業者・農業者・住民の合意形成を経て、鳥獣保護区や国立・国定公園などの法的な保護担保を整えたうえで、締約国会議に合わせて条約事務局へ通報します。2025年に登録された猪苗代湖では、日本で4番目に広い湖という規模に加え、冬に飛来するハクチョウ類やカモ類の重要な越冬地であること、そして湖の水を農業用水や上水に使う流域の暮らしと湖の保全が長年結びついてきたことが評価されました。また沖縄の慶良間諸島海域のように、ダイビングや観光が主要産業の地域では、サンゴ礁を「使う」観光事業者自身が保全ルールの担い手になっています。
| 基準 | 内容(要約) | 日本での該当例 |
|---|---|---|
| 基準1 | その生物地理区を代表する、または希少・固有な湿地タイプ | 釧路湿原、秋吉台地下水系 |
| 基準2 | 絶滅のおそれのある種や群集を支えている | 出水(ナベヅル・マナヅル)、円山川(コウノトリ) |
| 基準3 | その地域の生物多様性の維持に重要な動植物を支えている | 琵琶湖の固有魚、慶良間のサンゴ |
| 基準4 | 生活史の重要な段階(渡り・越冬・繁殖)を支えている | 谷津干潟、東よか干潟、漫湖 |
| 基準5 | 定期的に2万羽以上の水鳥を支えている | 蕪栗沼、宮島沼、伊豆沼・内沼 |
| 基準6 | ある水鳥の個体群の1%以上を定期的に支えている | 出水、宮島沼、藤前干潟 |
| 基準7〜8 | 固有の魚類や、魚の餌場・産卵場として重要 | 琵琶湖、宍道湖・中海 |
| 基準9 | 鳥類以外の動物の個体群の1%以上を支えている | (該当例は少ない) |
基準5と6は「水鳥の数」が物差しになっています。日本の干潟や沼が登録される最大の理由は、まさに渡り鳥の中継地・越冬地としての価値なのです。
渡り鳥の中継地としての国際的価値——フライウェイの飛び石
日本の湿地は、東アジア・オーストラリア地域フライウェイ(EAAF)と呼ばれる渡り鳥の大回廊の中ほどに位置します。この回廊はロシア極東やアラスカから東アジア・東南アジアを経てオーストラリア・ニュージーランドに至る22か国にまたがり、210種以上、5,000万羽を超える水鳥が利用しています。シベリアで繁殖したシギ・チドリが南半球で越冬するには、途中で羽を休めて栄養を補給する「飛び石」が欠かせません。日本の干潟は、その飛び石の一つひとつです。
干潟に集まる数字が語ること
佐賀県の東よか干潟(2015年登録、218ha)は、環境省のモニタリングサイト1000シギ・チドリ類調査で渡来数が全国一位を誇り、2020年春の最大個体数は1万4,763羽を記録しました。有明海の奥に広がる泥の干潟は、干満差が大きいため広い餌場が露出し、渡り鳥にとって効率のよい給油所になっています。
名古屋市の藤前干潟も、伊勢湾・三河湾に残る干潟の中で最大級の渡来数を誇り、春と秋の渡りの時期にはハマシギやダイゼンなどが群れをなします。こうした干潟は、干潮時に露出する泥の中のゴカイや二枚貝、カニといった底生生物の量がそのまま鳥の「餌の量」になるため、埋め立てや水質悪化で底生生物が減ると、見た目には干潟が残っていても渡り鳥は立ち寄らなくなります。登録基準5・6が「定期的に」という言葉を含んでいるのは、一時的に鳥が来るのではなく、毎年安定して支えられているかを問うているからです。

内陸の沼や農地でも数字は驚くべきものです。北海道美唄市の宮島沼(2002年登録)には、春と秋のピークに最大6万〜7万羽のマガンが集まります。宮城県の蕪栗沼・周辺水田(2005年登録、423ha)は、周辺の伊豆沼・内沼と合わせてマガンの国内最大級の越冬地で、多い年には10万羽を超えるとされます。鹿児島県の出水ツルの越冬地(2021年登録、478ha)には毎年1万羽を超えるナベヅルとマナヅルが渡来し、ナベヅルは世界の総個体数の約9割、マナヅルは約4割が集中します。出水市の記録では、2025年度の最大羽数は約1万3,300羽でした。
都市の河口も重要な中継地です。沖縄県那覇市と豊見城市にまたがる漫湖(1999年5月15日登録、58ha)は、国場川と饒波川の合流点にできた河口干潟で、周囲を住宅と道路に囲まれながらもシギ・チドリの渡りの中継地として知られ、マングローブ林が広がります。2003年5月には環境省が漫湖水鳥・湿地センターを設置し、マングローブの中を抜ける木道から干潟の生きものを観察できるようになりました。都市に残った58haの干潟が、東南アジアとシベリアをつなぐ回廊の一部を担っているのです。
「1か所欠けると回廊が切れる」構造
渡り鳥の保全が難しいのは、繁殖地・中継地・越冬地のどれか一つが失われても個体群全体が打撃を受ける点にあります。黄海沿岸の大規模な埋め立てで中継地が減った結果、EAAFのシギ・チドリの多くが減少傾向にあることは、姉妹記事「シギ・チドリと干潟の危機」で詳しく取り上げました。だからこそ条約は3本目の柱に国際協力を掲げ、日本は2006年に発足したEAAFパートナーシップに政府として参加し、国内の重要湿地をネットワーク参加地として登録しています。
渡り鳥にとっての日本の湿地
- 位置:EAAF(22か国・5,000万羽超)のほぼ中央に位置する中継地・越冬地
- 干潟:東よか干潟は春に1万4,000羽超のシギ・チドリ(全国1位)
- 沼と水田:宮島沼で最大6〜7万羽、蕪栗沼周辺で10万羽規模のマガン
- 農地:出水平野に世界のナベヅルの約9割が越冬
事例①市民が守った都市の干潟——谷津干潟と藤前干潟
日本の登録湿地の中でも、ワイズユースの物語として最もよく知られているのが、大都市のすぐそばに残った2つの干潟です。どちらも「埋め立てられるはずだった場所」であり、市民の声が行政の判断を変えました。
谷津干潟——高速道路と住宅地に囲まれた40ha
千葉県習志野市の谷津干潟は、東京湾の埋め立てが進むなかで、1971年ごろから周辺海域の埋め立て工事と計画が続いていました。これに対して市民団体による保護運動が始まり、干潟の清掃や観察活動を積み重ねた結果、埋め立ては中止されます。1993年6月10日、谷津干潟は干潟として国内で初めてラムサール条約に登録されました。面積はわずか40ha。周囲は高速道路と住宅地、高校や小学校に囲まれ、2本の細い水路だけで東京湾とつながっています。
登録翌年の1994年には谷津干潟自然観察センターが開館し、野鳥観察と環境学習の拠点になりました。毎年6月には登録記念日にちなんだ「谷津干潟の日」の催しが開かれ、市民・学校・企業が干潟の保全に参加する仕組みが30年以上続いています。都市の真ん中の干潟を「使い続ける」ことで守っている典型例です。
一方で、周囲を完全に埋め立てられた干潟を維持するのは簡単ではありません。谷津干潟は2本の水路を通じてしか海水が出入りしないため、水の交換が限られ、夏には緑藻のアオサが大量に堆積して底生生物や水鳥の餌場に影響を与えることが長年の課題になってきました。習志野市や観察センター、市民ボランティアはアオサの回収や水路の管理を継続しており、「登録して終わり」ではなく、日常的な手入れがあって初めて干潟の生態学的特徴が保たれることを、この小さな干潟は示しています。

藤前干潟——ごみ処分場計画の撤回と「ごみ非常事態宣言」
愛知県名古屋市の藤前干潟は、さらにドラマチックな経緯をたどりました。1981年、名古屋市は増え続けるごみに対応するため、藤前干潟をごみの埋め立て処分場にする計画を発表します。しかしここは伊勢湾に残された最大級の干潟で、シギ・チドリの重要な中継地でした。反対運動が広がり、1999年1月、名古屋市は埋め立て計画を断念します。
行き場を失ったごみをどうするか。名古屋市は同年2月に「ごみ非常事態宣言」を出し、徹底した分別とリサイクルに舵を切りました。干潟を守る決断が、都市全体のごみ政策を変えたのです。その後、2002年11月1日に国指定鳥獣保護区(集団渡来地)となり、同年11月18日にラムサール条約第8回締約国会議(COP8)で登録されました。現在は藤前干潟活動センターと稲永ビジターセンターが環境学習の拠点になっています。
2つの干潟に共通する教訓
- 「守れ」と言うだけでなく、観察会や清掃など干潟を使う活動が市民の輪を広げた
- 行政が計画を撤回するには、代替策(ごみ減量など)まで含めた議論が必要だった
- 登録後も観察センターが拠点となり、次の世代が干潟に関わり続けている
日本の干潟がどれほど埋め立てられてきたかは「干潟はなぜ埋め立てられたのか」で整理しています。谷津と藤前は、その大きな流れの中で「例外」を作った場所といえます。
事例②農業と共にある湿地——蕪栗沼のふゆみずたんぼと円山川のコウノトリ
ワイズユースのもう一つの柱は農業です。日本の登録湿地には水田を含むものが複数あり、「田んぼを湿地として使う」発想が国際的にも注目されてきました。
蕪栗沼・周辺水田——世界で初めて水田を含めた登録
宮城県北部の蕪栗沼は、マガンをはじめ多くの渡り鳥のねぐらです。ガンは沼で夜を過ごし、日中は周辺の田んぼで落ち穂や雑草を食べます。つまり、沼と田んぼは一体で機能しているのです。2005年11月8日の登録では、沼だけでなく周辺水田を含めた423haが「蕪栗沼・周辺水田」として登録されました。水田をラムサール条約湿地として登録したのは、これが世界で初めてとされています。
その背景にあるのが「ふゆみずたんぼ」です。通常は稲刈り後に乾かす田んぼに、冬の間も水を張る農法で、渡り鳥の餌場やねぐらになるだけでなく、イトミミズなどの土壌生物が増えて雑草を抑え、田んぼの生態系そのものが豊かになります。環境省の生物多様性センターは、ふゆみずたんぼで育てた米を通常より高い価格で販売する仕組みを、生態系サービスへの支払い(PES)の国内優良事例として紹介しています。農家にとっては手間と収益、渡り鳥にとっては越冬地、地域にとってはブランド——三者が同時に得をする形が、ワイズユースの理想像です。
ふゆみずたんぼには、渡り鳥の側にも農家の側にも具体的な利点があります。冬の田んぼに水があると、ガンやハクチョウは沼に集中せずに分散してねぐらをとれるため、1か所に過密に集まることによる糞の堆積や病気の広がりを抑えられます。農家にとっては、水を張ることで雑草の発芽が抑えられ、鳥の糞や土壌生物の働きで肥沃さが増すため、農薬や化学肥料を減らしやすくなります。蕪栗沼周辺でふゆみずたんぼが始まってから、マガンの飛来数は着実に増えたと環境省の資料は報告しています。「鳥を守るために田んぼを我慢する」のではなく、「鳥がいることで田んぼの価値が上がる」構図に転換したことが、この事例が国際的に評価される理由です。
円山川下流域・周辺水田——絶滅したコウノトリが500羽に
兵庫県豊岡市を流れる円山川の下流域は、2012年7月に「円山川下流域・周辺水田」として登録され、2018年に区域が拡大されました。ここは、1971年に国内の野生個体が絶滅したコウノトリの、野生復帰の舞台です。2005年9月24日に最初の5羽が放鳥されて以降、野外での繁殖が順調に進み、放鳥から20年となった2025年6月には野外のコウノトリが500羽を超えました。飛来先は13府県に及びます。
コウノトリは1羽で1日に相当量のカエルや魚、昆虫を食べる大型の肉食鳥です。彼らが暮らせるということは、餌になる生きものが田んぼや水路に豊富にいるということ。豊岡市では農薬や化学肥料を減らし、田んぼに魚道や深い水たまりをつくる「コウノトリ育む農法」が広がり、その米は高付加価値のブランドとして流通しています。放棄田をビオトープに転換した「ハチゴロウの戸島湿地」のような人工湿地も、登録区域の一部を構成しています。
| 項目 | 蕪栗沼・周辺水田(宮城) | 円山川下流域・周辺水田(兵庫) |
|---|---|---|
| 登録年 | 2005年(COP9) | 2012年(COP11)、2018年拡大 |
| 象徴となる鳥 | マガン(多い年に10万羽超) | コウノトリ(2025年に野外500羽超) |
| 農業との接点 | ふゆみずたんぼ(冬期湛水) | コウノトリ育む農法(減農薬・魚道・深水) |
| 経済の仕組み | 生態系サービスへの支払い(米の高付加価値化) | ブランド米・エコツーリズム |
| 湿地としての特徴 | 沼+水田が一体でガンの生活圏 | 河川・水田・人工湿地の複合 |
田んぼそのものがどれほど多様な生きものを育んでいるかは「田んぼの生きもの図鑑」でも解説しています。
事例③漁業・観光と湿地——宍道湖のシジミ、出水のツル、湿地自治体認証
ワイズユースは、漁業や観光と結びついたときに最も分かりやすい形をとります。湿地の恵みが直接、地域の生計になっているからです。
宍道湖・中海——日本一のシジミ産地は汽水の湿地
日本最大の湖である琵琶湖(滋賀県)は、1993年に登録され、2008年には隣接する西の湖まで区域が拡大されました。ここには魞(えり)と呼ばれる定置漁法や、ふなずしに代表される湖魚の食文化が千年以上続いており、固有種の魚や貝を含む生態系と人の食卓が直結しています。近年は湖岸のヨシ帯の再生や、田んぼで魚が産卵できるよう水路に魚道を設ける「魚のゆりかご水田」といった取り組みが進み、「湖と田んぼの間を魚が行き来する」という湖国の風景そのものがワイズユースの実践になっています。
島根県の宍道湖と、鳥取県にまたがる中海は、2005年11月8日に同時に登録された汽水湖です。宍道湖のヤマトシジミは全国のシジミ漁獲量の4割前後を占める日本一の産地で、シジミ漁は湖の水質や底質と切っても切り離せません。かつて中海では干拓と淡水化の計画が進められましたが、2002年に淡水化事業が中止され、汽水環境が守られたことが登録につながりました。シジミ漁師が湖底を掻く鋤簾(じょれん)漁は、資源管理のための操業日数や漁獲量の制限とセットで続けられており、「使いながら守る」漁業の代表例です。
出水ツルの越冬地——農地を舞台にした60年以上の市民調査
鹿児島県出水市の出水平野は、ツルが越冬する場所の大半が農地です。国内53番目の登録地として2021年11月18日に登録された区域478haには、水田や休耕田にツルの餌場やねぐらをつくる仕組みが組み込まれています。ここで特筆すべきは、ツルの羽数調査を地元の中学生が中心となって60年以上続けていることです。毎年秋から冬に複数回、早朝に中学生が調査に参加する伝統は、越冬地を地域の誇りとして次の世代に引き継ぐ、ワイズユースの文化的な側面といえます。

湿地自治体認証——新潟市と出水市が日本初
条約は2015年から、湿地の保全とワイズユースに優れた自治体を認証する「湿地自治体認証(Wetland City Accreditation)」制度を運用しています。2022年11月、ジュネーブで開かれたCOP14の認証式で、新潟市と出水市が日本で初めて認証されました。新潟市は市内に佐潟と瓢湖という2つの登録湿地を持ち、「潟」を暮らしの文化として位置づけてきた都市です。認証は、湿地の保全を地域のブランドや教育・観光に結びつける取り組みそのものを評価するもので、ワイズユースを自治体単位で可視化する仕組みとして注目されています。
漁業・観光・自治体に共通する「賢明さ」
- 資源管理(操業日数・漁獲制限)とセットで漁を続ける
- 農地を餌場やねぐらとして活かし、農家に対価が戻る仕組みをつくる
- 市民調査や環境学習を通じて、湿地を地域のアイデンティティにする
- 自治体が湿地を政策の中心に据え、国際的な認証で価値を可視化する
登録すれば安泰ではない——生態学的特徴の変化と世界の湿地の危機
ここまで成功例を見てきましたが、ラムサール条約への登録は「ゴール」ではありません。条約が求めるのは、登録時の生態学的特徴を維持し続けることであり、それが損なわれた場合には「モントルー・レコード」と呼ばれる要注意リストに掲載され、改善を求められます。
世界の湿地は今も年0.52%ずつ消えている
条約事務局が2025年7月のCOP15(ジンバブエ・ビクトリアフォールズ)に合わせて公表した「Global Wetland Outlook 2025」は、厳しい現実を示しています。1970年以降に世界で失われた湿地は約4億1,100万haで、これは湿地全体の約22%に相当します。減少は今も続いており、年率は0.52%。残っている湿地のうち約25%は生態系の状態が「悪い」と評価され、その割合はすべての地域で増えています。報告書は、このまま対策を取らなければ2050年までに湿地がもたらす39兆ドル相当の恵みが失われるおそれがあると警告しました。
日本の湿地はすでに61%が失われた
日本でも状況は同じです。国土地理院の調査によれば、明治・大正期に約2,110平方キロメートルあった全国の湿地は、1999年時点で約820平方キロメートルまで減少しました。減少率は約61%で、失われた面積の8割以上が北海道に集中しています。登録湿地の54か所・166,134haは、この「残った側」の中の、さらに国際的に重要と認められた一部にすぎません。
| 指標 | 数値 | 出典 |
|---|---|---|
| 世界で1970年以降に失われた湿地 | 約4億1,100万ha(約22%) | Global Wetland Outlook 2025 |
| 世界の湿地の年間減少率 | 0.52% | Global Wetland Outlook 2025 |
| 状態が「悪い」と評価された湿地の割合 | 約25%(すべての地域で増加) | Global Wetland Outlook 2025 |
| 日本の湿地面積の変化 | 約2,110km²→約820km²(約61%減) | 国土地理院(明治・大正期→1999年) |
| 日本の登録湿地 | 54か所・166,134ha | 環境省(2025年7月) |
登録地が直面している課題
登録後の湿地にも、さまざまな圧力がかかっています。上流のダムや護岸による土砂供給の変化、生活排水や農業由来の栄養塩による水質悪化、外来種の侵入、そして気候変動による水温上昇や海面上昇です。渡り鳥が集中する越冬地では、高病原性鳥インフルエンザが一度に多数の個体を失わせるリスクも現実のものになっています。さらに、農業や漁業の担い手が減れば、ふゆみずたんぼやシジミ漁のような「人が手をかけることで維持される湿地」は、使われないことによって劣化していきます。ワイズユースは、放置しても続くものではないのです。
日本政府は2023年に策定した生物多様性国家戦略2023-2030で、2030年までに陸と海の30%以上を保全する「30by30」目標を掲げました。国立公園などの保護地域に加えて、里山や企業の水源林のように保護を主目的としない場所でも生物多様性が保たれている区域を「自然共生サイト」として認定し、国際的にはOECM(保護地域以外で生物多様性保全に資する地域)として登録する仕組みです。ふゆみずたんぼやコウノトリ育む農法の田んぼ、資源管理された漁場は、まさに「人が使いながら守っている」自然共生サイトの候補であり、ラムサール条約のワイズユースと国内政策が重なり合う領域になっています。
越冬地への一極集中も、ワイズユースの観点から見直しが進んでいる課題です。世界のナベヅルの約9割が出水平野という限られた農地に集まる状況は、鳥インフルエンザなどの感染症が広がった場合に個体群全体を危険にさらします。2022年から2023年にかけての冬には、出水で高病原性鳥インフルエンザにより多数のツルが死亡し、この懸念が現実になりました。そのため環境省や関係自治体は、ツルの越冬地を他地域にも分散させる取り組みを続けています。越冬地を複数の地域で「使う」ことが、種の存続そのものに直結するのです。
「使わないこと」が湿地を壊すケース
- 冬に水を張る農家が減れば、ガンやハクチョウの餌場とねぐらが同時に失われる
- ヨシ刈りや野焼きをやめると、湿原が乾燥して樹林化が進む
- 漁業が衰退すると、湖の水質や底質を日常的に見守る目がなくなる
私たちにできるワイズユース——訪ねる・食べる・記録する
ワイズユースは行政や専門家だけのものではありません。条約が「自国内のすべての湿地」を対象にしている以上、私たちの日常の選択もその一部です。最後に、個人が今日から関われる3つの入口を整理します。
①訪ねる——観察センターと世界湿地の日
日本の登録湿地の多くには、環境省や自治体が設置した水鳥・湿地センターや自然観察センターがあります。谷津干潟自然観察センター、藤前干潟活動センター、漫湖水鳥・湿地センター、宮島沼水鳥・湿地センターなどでは、季節ごとの渡り鳥の様子を専門スタッフが案内してくれます。毎年2月2日は条約の採択日にちなむ「世界湿地の日(World Wetlands Day)」で、各地で観察会やイベントが開かれます。双眼鏡の選び方や季節ごとの探鳥地は「バードウォッチング入門」を参考にしてください。訪れる際は、鳥との距離を保ち、干潟に無断で立ち入らないことが基本のマナーです。
②食べる——湿地の恵みを選ぶ
宍道湖のシジミ、蕪栗沼周辺のふゆみずたんぼ米、豊岡のコウノトリ育むお米、琵琶湖の湖魚——これらは湿地のワイズユースそのものが生み出した産品です。生きものと共存する農法や、資源管理された漁業の産品を選ぶことは、湿地を使い続ける人たちに対価を戻す、最も直接的な参加の形です。
③記録する——市民調査に参加する
出水の中学生によるツルの羽数調査や、環境省のモニタリングサイト1000のシギ・チドリ類調査は、多くの市民ボランティアによって支えられています。豊岡ではコウノトリの目撃情報を市民が投稿し、データとして公開する仕組みが「世界的に斬新」と評価されました。子ども向けには、登録湿地の子どもたちが互いの湿地を訪ねて交流するKODOMOラムサールのような取り組みもあります。記録は、湿地の生態学的特徴が保たれているかを判断する土台であり、記録する人がいる湿地は守られやすいのです。
学校での取り組みも広がっています。登録湿地の周辺では、小中学校が観察センターと連携して干潟や沼を教材にした総合学習を行い、清掃活動や生きもの調査の結果を地域に発表する例が増えています。習志野市の谷津干潟や名古屋市の藤前干潟では、市民運動の当事者だった世代が、今は子どもたちを干潟に案内する側に回っています。湿地を「自分たちの場所」として体験した子どもが増えることは、数十年後の生態学的特徴を守る、最も確実な投資かもしれません。

この記事のまとめ
- ワイズユースとは「壊さない使い方」で湿地の生態学的特徴を維持すること。条約の3つの柱の一つ
- 日本の登録湿地は54か所・166,134ha。干潟・湖・水田・サンゴ礁・地下水系まで幅広い
- 日本の干潟や沼は、22か国・5,000万羽超のフライウェイを支える飛び石
- 谷津・藤前は市民運動が埋め立てを止め、蕪栗沼・円山川は農業と共存して渡り鳥やコウノトリを取り戻した
- 世界の湿地は1970年以降22%が消え、日本は明治以降61%減。登録は「守り続ける約束」の始まり
- 訪ねる・食べる・記録する——個人の選択もワイズユースの一部
湿地は、人が使わなければ守れず、使いすぎれば失われる、微妙なバランスの上にある場所です。ラムサール条約が半世紀以上前に「賢明な利用」という言葉を選んだのは、そのバランスを取り続ける知恵こそが保全の本質だと見抜いていたからでしょう。日本の54か所の湿地は、その知恵の実践例であり、同時にこれからも試され続ける現場なのです。
参考文献・出典
- 環境省 自然環境局 – ラムサール条約と条約湿地(条約の概要・3つの柱・登録基準・日本の登録湿地一覧)
- 環境省 報道発表 – 「猪苗代湖」がラムサール条約湿地に新規登録されました(2025年7月・54か所166,134ha)
- ラムサール条約事務局 – Global Wetland Outlook 2025(1970年以降22%減・年0.52%減・39兆ドルの恵み)
- ラムサール条約 COP9 決議IX.1 附属書A – ワイズユースと生態学的特徴の定義(2005年)
- 環境省 – 東アジア・オーストラリア地域フライウェイ・パートナーシップ(EAAFP)
- 国土地理院 – 日本全国の湿地面積変化の調査結果(明治・大正期→1999年)
- 環境省 生物多様性センター – 蕪栗沼のふゆみずたんぼ——生態系サービスへの支払い(PES)の優良事例
- 名古屋市 – 藤前干潟の保全・活用の紹介(埋立計画の断念とごみ非常事態宣言の経緯)
- 習志野市 – 谷津干潟がラムサール条約登録30周年を迎えました
- 新潟市 – ラムサール条約の湿地自治体認証について(2022年・新潟市と出水市が日本初)
- 出水市 – 年度別ツル渡来数(中学生による羽数調査の記録)
- 島根県 – ラムサール条約湿地「宍道湖・中海」/宍道湖のシジミ漁業
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