毎年春と秋、日本の干潟には北からも南からもやってくる小さな旅人たちがいます。シギ・チドリと呼ばれる渡り鳥です。彼らの一部は、アラスカやシベリアの繁殖地と、東南アジアやオーストラリアの越冬地とを、片道だけで数千〜1万キロ以上も往復します。その途方もない旅の途中で、体力を回復し「燃料」を補給する給油所——それが干潟です。
ところがいま、この給油所が世界中で急速に姿を消しています。渡りの大動脈である黄海沿岸では、1960年代から2010年代までに潮間帯干潟の約65%が埋め立てなどで失われました。日本国内でも、シギ・チドリの総個体数は2000年度と比べて春でおよそ58%減少しています。中継地が一つ消えるたびに、渡りという命がけの旅の成功率は下がっていきます。
この記事では、シギ・チドリとはどんな鳥なのか、東アジア・オーストラリア地域フライウェイという渡りの回廊がどう機能しているのか、そして干潟の消失がなぜここまで深刻な影響を及ぼすのかを、信頼できるデータをもとに読み解きます。あわせて、ラムサール条約や国際的なパートナーシップ、そして私たち一人ひとりにできる保全の一歩まで見ていきましょう。
この記事で学べること
- シギ・チドリがどんな鳥で、なぜ干潟が「命綱」になるのか
- 東アジア・オーストラリア地域フライウェイという1万キロ超の渡りの回廊のしくみ
- 黄海の埋め立てと中継地の消失が渡り鳥を追い詰めている構造
- 日本のシギ・チドリがこの数十年でどれだけ減ったか、最新の数字
- ヘラシギという象徴種の危機と、減少に潜む「時間差(タイムラグ)」
- ラムサール条約・EAAFP・国内の保全現場と、私たちにできること
シギ・チドリとは——干潟に生きる旅の達人たち
「シギ・チドリ」とは特定の一種を指す言葉ではなく、水辺で暮らす小〜中型の渡り鳥のグループをまとめた呼び名です。日本ではハマシギ、オオソリハシシギ、ダイゼン、メダイチドリ、キアシシギ、トウネンなど数十種が記録され、その多くが干潟や河口、砂浜、水田といった開けた湿地を主な生活の場にしています。共通するのは、長い距離を渡ること、そして地面や泥の中の小さな生きものを食べて暮らすことです。
彼らを一言で表すなら「旅の達人」です。繁殖はシベリアやアラスカなど北の高緯度地域で行い、冬は東南アジアやオーストラリア、ニュージーランドなど南で越します。その間を年に二度、地球を縦断するように移動します。体重がわずか数十グラムの小さな鳥が、これほどの長距離を移動できること自体が、生物学的な驚異といえます。
くちばしと脚が語る「役割分担」
干潟に降り立ったシギ・チドリをよく観察すると、種類ごとにくちばしの長さや形、脚の長さが少しずつ違うことに気づきます。これは偶然ではありません。長いくちばしを持つ種は泥の深くに潜むゴカイや二枚貝を探り、短いくちばしの種は表面近くの小さな甲殻類をついばみます。同じ干潟でも、鳥たちは食べる場所や獲物を巧みに分け合い、限られた資源をめぐる競争を避けているのです。

なぜ干潟が「命綱」なのか
干潟は、潮の満ち引きによって一日に二度、海面下に沈んだり空気にさらされたりする泥や砂の平地です。川が運ぶ栄養分と海の生産力が出会うため、ゴカイ、カニ、貝類、小型の甲殻類といった底生生物(ベントス)がきわめて豊富に暮らしています。渡り鳥にとって、干潟はいわば「食べ放題のサービスエリア」です。ここで短期間に大量に食べ、脂肪という燃料を体に蓄えることで、次の長距離飛行に備えます。
- 干潟は川と海の栄養が合流し、底生生物の生産力が非常に高い
- 渡り鳥は数日〜数週間で体重を大きく増やし、飛行の燃料(脂肪)を蓄える
- 干潟の底生生物は水質浄化の役割も担い、人の暮らしにも恵みをもたらす
- 一つの干潟が失われると、渡りの「給油所」が一つ消えることを意味する
干潟の価値は渡り鳥だけのものではありません。ゴカイやアサリなどの二枚貝が水中の有機物を取り込むことで、水質の浄化にも寄与しています。こうした湿地の恵みは、藻場や塩性湿地が炭素を蓄える働きとも通じるものがあります。海の生態系がどのように炭素と栄養を循環させているかは、ブルーカーボン生態系の視点からも理解が進んでいます。
さらに注目したいのは、干潟の生産力が「見えない循環」に支えられている点です。潮が満ちると魚やエビが干潟に入り込んで底生生物を食べ、潮が引くと今度は鳥たちがその底生生物を食べます。干潟の泥の表面では、珪藻などの微細な藻類(微細藻類)が太陽の光を受けて活発に光合成を行い、この一次生産が食物網全体の土台になっています。つまり干潟は、太陽と潮の力を使って、鳥や魚を養う莫大な食料を生み出し続ける「天然の生産工場」なのです。この生産力があるからこそ、狭い面積の干潟に数千から数万羽もの渡り鳥が集中できます。
干潟に集う多彩な顔ぶれ
日本の干潟で見られるシギ・チドリは実にさまざまです。全国の干潟でもっとも普通に見られるのはハマシギで、泥にくちばしを何度も差し込みながら小さな貝やゴカイを食べます。大型のオオソリハシシギは長く上に反ったくちばしを持ち、深い泥の中の獲物を探ります。丸っこい体のダイゼンは干潟を歩いては立ち止まり、目で獲物を見つけて素早くついばみます。有明海のような泥深い干潟には、絶滅危惧種のクロツラヘラサギやズグロカモメも渡来します。こうした多様な種が一つの干潟に共存できること自体が、その場所の健全さの証といえます。
この章のポイント
- シギ・チドリは特定の一種ではなく、渡りをする水辺の鳥の総称
- くちばしと脚の違いが、同じ干潟での食べ分けと共存を可能にする
- 干潟は底生生物が豊かな「給油所」であり、渡りの命綱になっている
東アジア・オーストラリア地域フライウェイ——生命をつなぐ空の回廊
渡り鳥は、地図の上でおおよそ決まった帯状のルートを行き来しています。この空の回廊を「フライウェイ(渡りの経路)」と呼びます。世界にはいくつかの主要なフライウェイがあり、日本の干潟にやってくるシギ・チドリの大半は、そのうち「東アジア・オーストラリア地域フライウェイ(EAAF)」を利用しています。
このフライウェイは、北はロシア極東やアラスカから、東アジア・東南アジアを経て、南はオーストラリアやニュージーランドまで、およそ22の国と地域にまたがります。ここを行き来する渡り性水鳥は200種以上、総数は5000万羽にのぼると考えられています。日本列島は、この巨大な回廊のちょうど中ほどに位置する重要な中継地帯なのです。

中継地は「飛び石」のように連なる
フライウェイを理解する鍵は、「飛び石(ステッピングストーン)」というイメージです。渡り鳥は繁殖地から越冬地まで一気に飛ぶわけではなく、途中の湿地を飛び石のように伝いながら移動します。それぞれの中継地で燃料を補給し、次の飛行に備える——この繰り返しで長い旅が成立しています。
この構造には弱点があります。飛び石が一つでも欠けると、そこを頼りにしていた鳥は行き場を失い、渡り全体が破綻しかねないのです。特に、多くの個体が集中して利用する「要(かなめ)の中継地」が失われた場合、その打撃はフライウェイ全体に波及します。黄海の干潟は、まさにこの要の中継地でした。
| 区分 | 主な地域 | 役割 |
|---|---|---|
| 繁殖地 | ロシア極東・アラスカ・シベリア | 夏に営巣し、ヒナを育てる |
| 中継地 | 黄海沿岸・日本列島・朝鮮半島 | 渡りの途中で燃料補給・休息する |
| 越冬地 | 東南アジア・オーストラリア・ニュージーランド | 冬を越し、体力を蓄える |
日本列島が担う役割
日本には、有明海、東京湾、伊勢湾、三河湾など、国際的に重要なシギ・チドリの渡来地が点在しています。これらの干潟は、フライウェイという長い旅路の中で、鳥たちが確実に立ち寄れる数少ない安全地帯です。日本の干潟を守ることは、単に国内の自然を守るだけでなく、フライウェイ全体、ひいては東アジア・オセアニアの生物多様性を支えることに直結します。日本の海の生きものの豊かさについては、日本の海洋生物多様性の記事もあわせて参考にしてください。
世界には主要なフライウェイが9つほどあるとされ、東アジア・オーストラリア地域フライウェイはその中でも特に多くの絶滅危惧種を抱えることで知られています。理由の一つは、このフライウェイの中継地が、世界でも有数の人口密集地帯と重なっているためです。中国、韓国、日本、東南アジアの沿岸部は経済発展の中心地でもあり、干潟が開発の圧力に絶えずさらされてきました。渡り鳥の危機と人間活動の集中が、地理的に重なり合っているのです。
フライウェイという考え方
渡り鳥は国境で分けられません。だからこそ、繁殖地・中継地・越冬地を持つ国々が国際的に連携して保全する「フライウェイ・アプローチ」が重要になります。一国だけの努力では、渡り鳥は守りきれないのです。
驚異の渡り——ノンストップ1万キロと「燃料補給」の科学
シギ・チドリの渡りがどれほど過酷なものか、具体的な記録を見るとよくわかります。オオソリハシシギは、水も飲まず、餌も食べず、眠りもとらずに飛び続ける「ノンストップ飛行」の世界記録保持者として知られています。ある個体は、アラスカからニュージーランドまで、太平洋を横断して休息なしで飛び続けました。
近年の追跡調査ではさらに驚くべき記録も報告されています。生後わずか5か月の幼鳥が、アラスカを飛び立ってからタスマニアに着陸するまで、総移動距離およそ1万3560キロメートルを、11日と1時間かけて一度も休まずに飛び切ったのです。これは経験の浅い若鳥が、誰にも教わらずに成し遂げた記録でした。
こうした記録が明らかになったのは、超小型の発信機を鳥に装着し、人工衛星で位置を追跡する技術が発達したためです。かつては足環による標識調査で「どこで放した鳥がどこで見つかったか」という点と点しか分かりませんでしたが、いまでは渡りの全行程を線として描けるようになりました。その結果、シギ・チドリが海の上を何日も飛び続ける様子や、特定の干潟に強く依存している実態が、次々と数字で裏づけられています。技術の進歩が、渡り鳥保全の科学的な土台を大きく前進させたのです。
コオバシギもまた、長距離の渡りで知られる種です。年間の移動距離は往復で1万5千キロを超えることもあり、世界でも屈指の旅鳥といえます。これらの鳥に共通するのは、途中でわずかな数の中継地に体力回復を大きく依存している点です。頼れる干潟が限られているからこそ、その一つが失われる打撃は計り知れません。渡りの距離が長い種ほど、中継地の消失に対して脆弱になるという皮肉な関係がここにあります。
無着陸飛行の記録
オオソリハシシギの無着陸飛行の記録はおよそ11,000〜13,500km。これは睡眠も食事もとらずに飛び続けた距離で、鳥類の渡りで知られる最長級の記録です。

体を「燃料タンク」に作り替える
これほどの飛行を可能にするのが、渡りの前に干潟で行う集中的な燃料補給です。シギ・チドリは中継地の干潟で数日から数週間かけて底生生物を食べ続け、体重を大きく増やします。増えた分の多くは脂肪であり、これが長距離飛行のエネルギー源になります。種によっては、飛行前に消化器官を一時的に縮小させ、その分だけ胸の飛翔筋を発達させるといった、体の内部までも作り替える現象が知られています。
つまり、渡り鳥にとって干潟は「単なる休憩所」ではなく、次の飛行の成否を左右する「補給基地」です。ここで十分に太れなければ、次の目的地まで到達できず、途中で力尽きてしまう可能性が高まります。中継地の質と量が、渡り全体の生死を分けるのです。
- 中継地の干潟に到着し、底生生物を集中的に食べる
- 数日〜数週間で体重を大幅に増やし、脂肪を蓄える
- 消化器官を縮小し、飛翔筋を発達させて飛行に最適化する
- 蓄えた脂肪を燃料に、次の目的地へ向けて長距離を飛ぶ
「食べ放題」が消えると何が起きるか
この仕組みを裏返すと、中継地の危うさが見えてきます。もし干潟の面積が減り、底生生物が乏しくなれば、鳥たちは同じ場所に殺到して餌を奪い合うことになります。十分に太れないまま出発を迫られた個体は、渡りの途中で力尽きたり、繁殖地にたどり着いても卵を産む体力が残っていなかったりします。中継地の劣化は、目に見えにくい形で、遠く離れた繁殖地の成功率まで下げてしまうのです。
渡りのタイミングも、驚くほど精密に管理されています。北の繁殖地で虫や植物が最も豊かになる短い夏に合わせて到着しなければ、ヒナを育てる餌が足りません。逆に早すぎれば、まだ雪と氷に閉ざされた大地が待っています。そのため渡り鳥は、日の長さの変化などを手がかりに、体内時計と外界のサインを組み合わせて出発の時期を決めています。中継地で予定どおり燃料を補給できるかどうかは、この精密なスケジュール全体が成立するかどうかにも関わってきます。干潟が痩せて滞在が長引けば、繁殖地への到着が遅れ、その年の繁殖そのものを失いかねません。
こうして見ると、シギ・チドリの渡りは「途切れのない鎖」にたとえられます。繁殖・南下の渡り・越冬・北上の渡り、その一つひとつの輪がすべてつながって初めて、翌年もまた干潟に群れが戻ってきます。どこか一つの輪が弱れば、鎖全体が切れてしまう。干潟という中継地は、この鎖の中でも特に負荷のかかる要の輪です。渡り鳥の暮らしを丸ごと理解しようとすることは、海と陸、そして国境を越えた自然のつながりそのものを理解することにほかなりません。
この章のポイント
- オオソリハシシギは1万キロ超を無着陸で飛ぶ渡りの記録保持者
- 渡り鳥は干潟で体を「燃料タンク」に作り替えてから飛び立つ
- 中継地で十分に太れないと、渡りも繁殖も失敗しやすくなる
干潟が消える——黄海の埋め立てと中継地の危機
東アジア・オーストラリア地域フライウェイの心臓部といえるのが、中国と朝鮮半島に囲まれた黄海(および渤海)の広大な干潟です。ここは多くのシギ・チドリが渡りの折り返し地点として集中的に利用する、まさに「要の中継地」でした。ところが、この一帯で干潟の大規模な消失が進みました。
研究によれば、1960年代初頭から2010年代半ばにかけて、黄海・渤海沿岸では潮間帯干潟の約65%が失われたとされます。埋め立てによる工業用地や港湾の造成、養殖池や塩田への転換などが主な要因です。ある推計では、2000年から2015年のわずか15年間だけでも、約1795平方キロメートル(沿岸湿地の約29%)が開発で失われました。これは渡り鳥にとって、飛び石の大半が海から消えていくに等しい変化でした。
黄海の干潟が特別に重要だったのには理由があります。この一帯は世界でも有数の広大な干潟が広がり、大河が運ぶ栄養分によって底生生物がきわめて豊富でした。北極圏の繁殖地と南半球の越冬地のちょうど中間に位置するため、多くの種にとって、長い渡りを二分する不可欠な「折り返し地点」だったのです。ここで十分に燃料を補給できなければ、その先の飛行も、目的地での繁殖も成り立ちません。一つの海域の干潟が、フライウェイ全体の運命を握っていたといっても過言ではありません。

中継地への依存度が減少率を予測する
黄海干潟の消失が渡り鳥に与えた影響は、科学的にも裏づけられています。複数の研究で、ある種がどれだけ黄海の干潟に依存しているかによって、その種の個体数の減少幅がある程度予測できることが示されました。言い換えれば、黄海に強く頼っていた種ほど、急速に数を減らしているのです。これは、中継地の消失が個体数減少の主要な原因であることを示す強い証拠とされています。
干潟の消失は、水質や生態系の劣化とも無関係ではありません。閉鎖的な内海で富栄養化が進むと、赤潮や貧酸素水塊が発生し、底生生物の生息環境そのものが悪化します。こうした沿岸環境の悪化のメカニズムは、赤潮と富栄養化の記事でも詳しく扱っています。
日本の中継地に迫る多様な脅威
日本国内でも、干潟をめぐる状況は楽観できません。かつて1960〜70年代には、沿岸の大規模な干拓や埋め立てによって干潟そのものが物理的に失われることが減少の主因でした。現在では大規模な埋め立ては減りましたが、それでも個体数の減少は止まっていません。むしろ脅威は多様化・複合化しています。
- 水田や蓮田など、渡り鳥が利用してきた二次的湿地の機能低下
- 農地整備による湛水期間(水を張る時期)の短縮
- 防潮堤の整備による干潟や湿地の縮小
- 海面上昇と土砂供給の不足による砂浜・干潟の痩せ細り
- 人の立ち入りや開発による、休息場所の質の低下
つまり、目に見える大規模開発が減っても、じわじわと生息地の質が下がり続けているのが現状です。干潟を「守る」だけでなく「取り戻す・質を高める」という発想が求められています。国内の干潟保全の取り組みについては、干潟の保全の記事でさらに掘り下げています。

干潟の縮小は、そこに暮らす人々の生業とも切り離せません。豊かな干潟はアサリやノリ、魚介類を育む漁業の場でもあり、干潟が失われれば沿岸の水産資源も痩せていきます。海の環境変化が漁業に与える影響は、海洋温暖化と漁業の記事でも扱っています。渡り鳥を守ることと、沿岸の暮らしを守ることは、決して別々の課題ではないのです。
見えにくい危機に注意
干潟の危機は、埋め立てのような分かりやすい形だけではありません。海面上昇、土砂供給の減少、湿地の乾燥化など、ゆっくり進む変化が生息地の質を静かに奪っていきます。数字に表れる頃には、すでに手遅れになっていることも少なくありません。
半減した個体数——数字が語る静かな絶滅
干潟の消失と劣化は、渡り鳥の数にはっきりと表れています。環境省などが全国の主要な渡来地で実施している長期モニタリング調査は、その変化を冷徹な数字で示しています。日本のシギ・チドリ類の総個体数は、2000年度と比べて2022年度末までに、春でおよそ58.2%、秋で53.0%、冬で55.3%減少しました。わずか二十数年で、おおよそ半分になってしまったのです。
さらに深刻なのは、減少がなお続いていることです。特に2010年度以降は、年率およそ6%という速いペースで減り続けています。年6%の減少とは、放置すればおよそ十数年でさらに半減する計算になります。これは一時的な変動ではなく、構造的な下降トレンドと考えられています。

フライウェイ全体でも進む減少
この傾向は日本だけの問題ではありません。東アジア・オーストラリア地域フライウェイ全体で見ても、渡り性水鳥の個体数は年におよそ5〜9%の割合で減少しているとされます。フライウェイのシギ・チドリ類の個体群のうち約38%が減少傾向にあり、20の個体群が国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストで絶滅危惧に分類されています。渡り鳥の危機は、東アジア・オセアニア規模の広がりを持っているのです。特に、繁殖地から遠く離れたオーストラリアやニュージーランドで越冬する種ほど、渡りの全行程で多くの危険にさらされるため、減少が著しい傾向にあります。
減少の背景には、干潟の消失という直接的な要因だけでなく、気候変動という長期的な圧力も加わっています。繁殖地である北極圏では、温暖化によって雪解けの時期や昆虫が発生するタイミングが変化し、渡り鳥が到着したときには餌のピークが過ぎてしまう「ミスマッチ」が懸念されています。中継地の干潟では、海面上昇が生息地をさらに狭めます。複数の圧力が渡りの各段階で同時に働くことで、個体数の回復はいっそう難しくなっているのです。
| 指標 | 数値 | 出典・時点 |
|---|---|---|
| 日本・春期の個体数減少 | 約58.2%減 | 2000年度比・2022年度末(環境省モニタリング) |
| 日本・2010年度以降の減少率 | 年率約6% | モニタリングサイト1000等 |
| フライウェイ全体の減少率 | 年約5〜9% | 国際的な水鳥調査 |
| 減少傾向にある個体群の割合 | 約38% | フライウェイのシギ・チドリ類 |
「静かな絶滅」という言葉の重み
干潟の鳥の減少は、森林火災や油流出のように劇的な形では報じられません。しかし、毎年少しずつ確実に数が減っていく様子は、しばしば「静かな絶滅」と呼ばれます。派手さがないぶん危機感が共有されにくく、気づいたときには回復が難しい水準まで落ち込んでいる——それがこの問題の厄介さです。だからこそ、地道な長期モニタリングによって変化を「見える化」することが、保全の出発点になります。
日本のモニタリングは、多くのボランティアの目に支えられている点も見逃せません。全国の干潟で、市民の観察者たちが春と秋に渡来した鳥の数を根気強く数え続けてきました。こうした長年の記録があるからこそ、「この二十数年で半減した」という事実を確かな数字として語ることができます。一羽ずつを数える地道な作業の積み重ねが、政策や国際交渉を動かす証拠になっているのです。市民科学(シチズンサイエンス)は、渡り鳥保全の隠れた土台といえます。
この章のポイント
- 日本のシギ・チドリはこの二十数年でおよそ半減した
- 2010年度以降は年率約6%で減り続けている
- フライウェイ全体でも約38%の個体群が減少傾向にある
ヘラシギという象徴——世界に数百羽の警鐘
渡り鳥の危機を象徴する一羽が、ヘラシギです。名前のとおり、しゃもじ(ヘラ)のように先が平たく広がった独特のくちばしを持つ小さなシギで、その愛らしい姿から世界中の研究者や愛鳥家に親しまれています。しかしいまや、ヘラシギは地球上でもっとも絶滅に近い鳥の一つとされています。
ヘラシギはシベリア北東部で繁殖し、東南アジアのミャンマーやバングラデシュなどで越冬します。その往復は1万5千キロ以上に及び、途中の黄海や日本の干潟を中継地として利用します。ところが、世界の個体数はすでに数百羽規模まで落ち込み、環境省のレッドリストでも最も危機的な絶滅危惧IA類に指定されています。過去10年ほどで世界の個体数が大きく減少したとの報告もあり、このままでは近い将来に絶滅する危険がきわめて高いと警告されています。

70年のデータが明かした「時間差」
2026年、北海道大学の研究グループが、ヘラシギの減少要因を約70年分のデータから解析した成果を発表しました。この研究が特に重要なのは、生息地の変化が個体数に反映されるまでに「10年以上の時間差(タイムラグ)」があることを明らかにした点です。過去10年の環境変化よりも、過去50年におよぶ長期的な生息地の縮小のほうが、現在の減少と強く関連していたのです。
この研究では、ヘラシギの観察個体数が1970年代から2020年代にかけて約90%減少したこと、そして同じ期間に干潟が約54%、砂浜が約58%縮小し、人工の代替生息地に至っては93%が失われたことも示されました。タイムラグの存在は、私たちに重い教訓を与えます。いま干潟を守っても効果が数字に表れるのは十数年先かもしれない——逆に言えば、いま失う干潟のツケは、十数年後にさらに深刻な減少として跳ね返ってくるということです。
生息地の変化が個体数に反映されるまでには、少なくとも10年以上の時間を要する。過去10年の変化より、50年間の長期的な生息地の縮小のほうが、現在の減少と強く関連していた。
― 北海道大学 先崎理之 准教授らの研究(Estuarine, Coastal and Shelf Science, 2026年)
象徴種を守ることの意味
ヘラシギを救うための取り組みは、国境を越えて広がっています。繁殖地であるロシア極東では、野生の卵を安全な環境で人工的にふ化させ、ある程度育ててから放野する「ヘッドスターティング」という手法が試みられ、ヒナの生存率を高める努力が続けられてきました。越冬地の東南アジアでは、密猟を防ぐために現地の狩猟者に別の生計手段を提供する活動も行われています。繁殖地・中継地・越冬地のどこか一つでも欠ければ救えないからこそ、フライウェイ全体での連携が不可欠なのです。
ヘラシギのような象徴種(フラッグシップ種)を守る取り組みは、その一種だけを救うものではありません。ヘラシギが健全に過ごせる干潟は、ハマシギやオオソリハシシギ、クロツラヘラサギなど、同じ環境に依存する多くの生きものにとっても良い環境です。象徴種を旗印にして生息地を守ることで、その傘の下にある生態系全体が守られる——これが保全生物学でいう「アンブレラ効果」です。ヘラシギの越冬地が各国で保護区に指定される動きは、まさにこの考え方に基づいています。海の生物多様性を丸ごと守る発想は、日本の海洋生物多様性の記事とも通じ合います。
アンブレラ効果とは
広い生息地や特別な環境を必要とする象徴種を守ると、その傘(アンブレラ)の下で、同じ環境に頼る多くの生きものもまとめて守られます。ヘラシギの保全は、干潟の生態系全体を守る入り口になるのです。
干潟を守る——ラムサール条約・国際連携と現場の力
危機は深刻ですが、手をこまねいているわけではありません。渡り鳥は国境を越えて移動するため、その保全には国際的な枠組みが不可欠です。その中核が、湿地の保全を目的とした「ラムサール条約」と、渡り鳥のフライウェイに特化した「東アジア・オーストラリア地域フライウェイ・パートナーシップ(EAAFP)」です。
ラムサール条約と「賢明な利用」
ラムサール条約は、水鳥の生息地として国際的に重要な湿地を守るための国際条約です。単に開発を禁じるのではなく、湿地を持続可能な形で使いながら守る「賢明な利用(ワイズユース)」という考え方を大切にしています。日本では1993年に千葉県の谷津干潟が国内の干潟として初めて登録され、その後、藤前干潟(2002年)、佐賀県の東よか干潟(2015年)など、シギ・チドリの重要な中継地が次々と登録されてきました。
なかでも藤前干潟の登録には、市民の力が大きく関わりました。かつてこの干潟はごみ処分場として埋め立てられる計画がありましたが、渡り鳥の重要な渡来地であることを訴える市民や研究者の粘り強い運動によって計画は撤回され、その後ラムサール条約湿地として登録されるに至りました。一度は失われかけた干潟が守られ、国際的に価値を認められた——これは、地域の関心と行動が保全を実現できることを示す象徴的な事例です。谷津干潟のように都市のただ中に残された干潟も、多くの人が親しみ、見守ることで初めて未来へ引き継がれていきます。
| 湿地 | 所在 | ラムサール登録年 |
|---|---|---|
| 谷津干潟 | 千葉県習志野市(東京湾) | 1993年 |
| 藤前干潟 | 愛知県名古屋市(伊勢湾) | 2002年 |
| 東よか干潟 | 佐賀県(有明海) | 2015年 |

フライウェイをまるごと守る国際連携
EAAFPは、2006年に発足した渡り性水鳥のための国際的なパートナーシップです。ロシア極東からオーストラリア・ニュージーランドまで、フライウェイ沿いの国々や国際機関、NGOが参加し、渡り鳥の重要な生息地をネットワークとして保全することを目指しています。日本国内でも、ウトナイ湖や風蓮湖・春国岱、東京港野鳥公園など、2023年時点で34か所がこのネットワークに参加しています。一つの国だけでは守れない渡り鳥を、フライウェイ全体で支える仕組みです。

保全は「守る」だけでなく「取り戻す」段階にも入りつつあります。かつて失われた干潟を、堤防の一部を開いて再び海水を導き入れることで復元する試みや、痩せた干潟に土砂を補って底生生物の生息環境を回復させる取り組みも各地で始まっています。こうした沿岸の生態系を積極的に再生する発想は、藻場の再生の取り組みとも共通しています。海の生態系は、一度失われても、条件を整えれば少しずつ取り戻せる可能性を秘めているのです。
国際的な取り組みには、明るい兆しもあります。IUCNの報告によれば、黄海の干潟消失のペースは2013年ごろを境に鈍化してきており、中国が沿岸湿地を世界自然遺産に登録するなど、保護に向けた動きも生まれています。もちろん、失われた干潟が簡単に戻るわけではなく、依然として緊急の対策が必要とされていますが、方向性が変わりつつあることは希望といえます。
私たちにできること
渡り鳥と干潟の保全は、専門家や行政だけのものではありません。一人ひとりの関心と行動が、大きな流れを支えます。まずは近くの干潟に足を運び、シギ・チドリの姿を実際に見てみることから始められます。生きものの豊かさや、それを育む海の恵みへの理解は、日本の海洋生物多様性やブルーカーボン生態系の視点を持つことで、より立体的になります。
今日からできる一歩
- 近くの干潟やラムサール登録湿地を訪れ、渡り鳥を観察してみる
- 干潟の観察会や清掃、モニタリングなど市民活動に参加する
- 干潟の埋め立てや開発計画に関心を持ち、情報に触れる
- 日本野鳥の会やWWFなど、保全団体の活動を知り応援する
- 干潟の価値や渡り鳥の危機を、家族や友人に伝えて広げる
まとめ——飛び石を絶やさないために
シギ・チドリの渡りは、地球規模のスケールで繰り広げられる生命のドラマです。体重わずか数十グラムの小さな鳥が、数千から1万キロを超える旅を年に二度もやり遂げる。その奇跡を支えているのが、途中に点在する干潟という「飛び石」であり、そこで行われる集中的な燃料補給でした。
しかしいま、その飛び石が世界中で失われつつあります。黄海では潮間帯干潟の約65%が消え、日本のシギ・チドリはこの二十数年でおよそ半減しました。ヘラシギの研究が示したように、干潟消失の影響は10年以上の時間差を伴って現れます。つまり、いま行動するかどうかが、十数年後の渡り鳥の運命を左右するのです。
干潟の危機は、他の海の課題とも地続きです。沿岸の富栄養化や、三陸の海がたどった環境変化と復興、藻場や塩性湿地の再生など、海をめぐる問題は互いにつながり合っています。三陸の海の再生のような沿岸再生の物語からも、失われた自然を取り戻すヒントを得ることができます。渡り鳥の視点から海を見つめ直すことは、私たちの沿岸環境全体を見つめ直すことでもあるのです。
同時に、黄海での消失ペースの鈍化やラムサール条約・EAAFPを通じた国際連携など、希望の芽も確かに育っています。渡り鳥は国境を越えて私たちのもとを訪れる共有の財産です。飛び石を一つでも多く残し、質を高めていくこと——それが、干潟を舞う群れの光景を未来に手渡すための、確かな一歩になります。次に干潟を訪れたとき、泥の上で忙しくくちばしを動かす小さな旅人たちが、はるか北極圏から南半球までを結ぶ壮大な旅の途中にいることを、どうか思い出してください。その一羽一羽の旅を支えているのは、ほかならぬ私たちの足元の干潟なのです。
この記事のまとめ
- シギ・チドリは干潟で「燃料補給」しながら1万キロ超を渡る旅の達人
- 黄海の干潟は約65%が消失し、渡りの「飛び石」が急速に失われている
- 日本のシギ・チドリはこの二十数年でおよそ半減し、なお年率約6%で減少中
- ヘラシギは世界に数百羽規模まで減り、影響は10年以上の時間差で現れる
- ラムサール条約・EAAFPなど国際連携と、干潟を訪れ関心を持つ一人ひとりの行動が鍵
参考文献・出典
- 環境省 生物多様性センター – モニタリングサイト1000 シギ・チドリ類調査(定点調査報告書)
- 環境省 – 東アジア・オーストラリア地域フライウェイ・パートナーシップ(EAAFP)
- 環境省 – ラムサール条約と条約湿地(藤前干潟ほか)
- 北海道大学 – 絶滅危惧種ヘラシギの減少要因を70年間のデータから解明(先崎理之 准教授)
- バードリサーチ – 長期モニタリングからみる日本のシギ・チドリ類
- IUCN – New IUCN report shows loss of tidal wetlands in Yellow Sea slowing since 2013
- Nature Communications – Rapid population decline in migratory shorebirds relying on Yellow Sea tidal mudflats as stopover sites
- WWFジャパン – 10万羽の水鳥が舞う、黄海に残された渡り鳥の楽園を守る
- 日本野鳥の会 – ヘラシギ 保護の取り組み
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