ぬかるんだ泥、腰まで届くヨシ、羽虫の羽音。湿地という場所は、正直なところ「歩きにくい土地」として長いあいだ扱われてきました。だからこそ日本では、明治以降のおよそ100年で湿地面積の61%が失われ、その半分は農地に変わりました。それは食料を支えた歴史でもありますが、同時に「水と陸のあいだ」にしか成り立たない生態系を、私たちが静かに削り続けた歴史でもあります。
その流れに国際的なブレーキをかけたのが、ラムサール条約です。1971年、イラン北部の保養地ラムサールで採択されたこの条約は、特定の生態系を対象にした世界で最初の国際環境条約でした。地球規模の環境問題がまだ一般には知られていなかった時代に、各国が「湿地は国境を越えて守るべき財産だ」と合意した——それ自体が驚くべき出来事です。
日本は1980年に加入し、釧路湿原を最初の登録湿地としました。それから45年、2025年7月15日に福島県の猪苗代湖が加わって登録数は54か所になりました。この記事では、ラムサール条約の基本から日本の登録湿地の広がり、そして湿地が私たちの暮らしに返してくれている「水を浄化し、命を育み、炭素を貯め、洪水を和らげる」という具体的な働きまでを、一次情報の数字とともに丁寧にたどっていきます。
この記事で学べること
- ラムサール条約が生まれた経緯と、「保全・再生」「賢明な利用」「交流・学習」という3つの柱
- 日本の54か所がどこに広がっているか——釧路湿原(1980年)から猪苗代湖(2025年)までの45年
- 「湿地」という言葉の広さ——干潟・サンゴ礁・カルスト地下水系・水田まで含む理由
- 湿地が果たす4つの働き:水を浄化する/生きものを育む/炭素を貯める/洪水を和らげる
- 日本の湿地が失われてきた歴史と、市民の力で埋め立てを止めた藤前干潟の物語
- 「賢明な利用(ワイズユース)」という考え方と、私たちが今日から関われること
ラムサール条約とは何か——湿地を守る世界最初の環境条約
ラムサール条約の正式名称は「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」といいます。1971年2月2日、イラン北部カスピ海沿岸の町ラムサールで開かれた国際会議で採択され、1975年12月21日に発効しました。開催地の名前がそのまま通称になった、めずらしい条約です。
この条約が画期的だったのは、対象を「湿地」という生態系のタイプに絞ったことでした。それまでの国際条約は、特定の動物種の保護や海洋汚染の防止など、個別の問題に対応するものが中心でした。ラムサール条約は「そこに住む生きものを守るには、生きものが依存している環境そのものを守らなければならない」という、今では当たり前になった発想を、半世紀前に条文に落とし込んだのです。
なぜ「水鳥」から始まったのか
条約名に「水鳥」が入っているのには理由があります。ガンやカモ、シギ・チドリといった水鳥は、国境をまたいで数千キロを移動します。ある国が繁殖地を守っても、中継地や越冬地が別の国で失われれば、その努力は水の泡になる。つまり水鳥の保護は、一国だけでは絶対に完結しないのです。渡り鳥という「動く証拠」が、湿地の国際協力を必要とする最も分かりやすい理由になりました。
ただし現在の条約の運用は、水鳥だけを見ているわけではありません。魚類の産卵場としての価値、希少な植物群落、地下水系、湿地に依存する固有種、そして地域の文化——登録の判断基準(クライテリア)は9つに拡張され、湿地の多面的な価値が評価されるようになっています。
条約が掲げる3つの柱
ラムサール条約の活動は、次の3つの柱に整理されます。この3本立ての構造を理解しておくと、「登録されたら何が起きるのか」がずっと分かりやすくなります。
| 柱 | 内容 | 具体例 |
|---|---|---|
| 保全・再生(Conservation) | 登録湿地の生態系を維持し、劣化した湿地を回復させる | 湿原の水位管理、外来種の駆除、埋め立て地の再生 |
| 賢明な利用(Wise Use) | 湿地を使うことを禁じるのではなく、生態系の機能を損なわない範囲で持続的に利用する | 漁業、稲作、エコツーリズム、地下水の利用 |
| 交流・学習(CEPA) | 広報・教育・普及啓発・参加を通じて、湿地の価値を社会で共有する | ビジターセンター、観察会、学校教育プログラム |
数字で見るラムサール条約(2025年時点)
- 採択:1971年2月2日(イラン・ラムサール)/発効:1975年12月21日
- 締約国:170か国以上
- 登録湿地:世界で2,500か所を超え、総面積は約2億5,000万ヘクタール
- 日本の加入:1980年(同年、釧路湿原を最初の登録湿地とした)
- 「世界湿地の日」は採択日にちなんで毎年2月2日
日本の条約湿地54か所——北の湿原から南のサンゴ礁まで
日本の登録湿地は、2025年7月現在で54か所です。北は北海道のサロベツ原野から、南は沖縄県の名蔵アンパルや慶良間諸島海域まで、気候帯も地形もまったく異なる湿地が並びます。国土が南北に長く、火山と急峻な地形と黒潮・親潮という条件が重なる日本だからこそ、これほど多様な「湿地のカタログ」が成立しています。
1980年の釧路湿原から始まった45年
日本が最初に登録したのは、1980年の釧路湿原(北海道)でした。日本最大の湿原であり、特別天然記念物タンチョウの生息地としても知られています。当時の日本には湿地保全という言葉すらほとんど普及しておらず、釧路湿原の登録は「国際的な約束によって国内の保全を後押しする」という、その後何度も繰り返されるパターンの最初の一例になりました。
その後、1989年のクッチャロ湖(北海道)、1991年の伊豆沼・内沼(宮城県)などが少しずつ加わっていきますが、日本の登録数が本格的に増えるのは2000年代に入ってからです。
2005年COP9で一気に20か所——「湿地の多様さ」を示した転換点
大きな転換点は2005年11月8日、ウガンダのカンパラで開かれた第9回締約国会議(COP9)でした。日本はこの会議で一度に20か所を追加登録し、それまで13か所だった登録数が33か所へと一気に増えました。
このときのラインナップが重要です。サロベツ原野・雨竜沼湿原といった北海道の湿原だけでなく、尾瀬、三方五湖、中海・宍道湖といった湖沼群、さらに秋吉台地下水系(山口県)というカルスト台地の地下水、串本沿岸海域や慶良間諸島海域というサンゴ礁の海、そして屋久島永田浜というウミガメの産卵浜まで含まれていました。「湿地とは沼のことではない」というメッセージを、日本が国際会議の場で自ら示した格好です。
そして2025年、猪苗代湖が54番目に
直近の登録は、2025年7月15日に登録された福島県の猪苗代湖です。面積は10,960ヘクタール、所在地は会津若松市・郡山市・猪苗代町にまたがります。日本で4番目に大きい湖で、酸性の水質と透明度の高さ、そしてハクチョウ類をはじめとする水鳥の越冬地としての価値が評価されました。これにより日本の条約湿地は54か所となっています。
| 年 | できごと | 登録数 |
|---|---|---|
| 1980年 | 日本が条約に加入。釧路湿原(北海道)を最初の登録湿地に | 1か所 |
| 1989年 | クッチャロ湖(北海道)を登録 | 2か所 |
| 1993年 | 第5回締約国会議(COP5)を釧路市で開催。日本が議長国に | 9か所 |
| 2002年 | COP8で藤前干潟・宮島沼などを登録 | 13か所 |
| 2005年 | COP9で一挙に20か所を追加登録 | 33か所 |
| 2008年 | 韓国・昌原でのCOP10で、大沼・瓢湖・化女沼など4か所を追加 | 37か所 |
| 2025年 | 猪苗代湖(福島県)を登録 | 54か所 |

北海道に13か所——分布の偏りが語ること
都道府県別に見ると、北海道が13か所と突出しています。次いで沖縄県が5か所、宮城県が4か所と続きます。この偏りは「北海道に湿地が多いから」という単純な理由だけではありません。本州以南では、平野部の湿地の多くがすでに水田・市街地・工業用地に変わってしまい、登録の要件を満たすまとまった湿地が残っていないという事情も反映しています。
日本国内で登録されるには、次の3つの要件を満たす必要があります(環境省)。
- 国際的に重要な湿地であること(国際的な9つの基準のいずれかに該当すること)
- 国の法律(自然公園法、鳥獣保護管理法など)により、将来にわたって自然環境の保全が図られること
- 地元住民などから登録への賛意が得られること
3つめの要件が意味すること
「地元住民の賛意」が要件に入っているのは、ラムサール条約が地域の暮らしと切り離して湿地を囲い込む仕組みではないからです。登録は開発を一律に禁じるものではなく、既存の農業・漁業・観光を続けながら、湿地の生態系を維持することを目指します。逆に言えば、地域が「守りたい」と思わない湿地は、制度上も登録できません。
「湿地」は沼だけではない——干潟・サンゴ礁・地下水系・水田まで
ラムサール条約でいう「湿地」の定義は、日常語の感覚よりもはるかに広いものです。条約第1条は、湿地を「天然のものか人工のものか、永続的なものか一時的なものかを問わず、水が滞っているか流れているか、淡水か汽水か塩水かを問わない、沼沢地、湿原、泥炭地、水域」と定義し、さらに「低潮時に水深6メートルを超えない海域を含む」としています。
つまり、干潟も、アマモ場も、サンゴ礁も、マングローブ林も、そしてダム湖や水田といった人工の水環境も、条件を満たせばすべて「湿地」です。この広さこそが、ラムサール条約が半世紀にわたって使い続けられている理由でもあります。
日本の登録湿地に見る「湿地タイプ」のバリエーション
| 湿地タイプ | 日本の登録例 | 特徴 |
|---|---|---|
| 高層湿原・湿原 | 釧路湿原、尾瀬、サロベツ原野、雨竜沼湿原 | 泥炭が堆積し、貧栄養で特殊な植物群落が発達する |
| 湖沼 | 琵琶湖、猪苗代湖、宍道湖・中海、クッチャロ湖 | 水鳥の越冬地。汽水湖は独自の生物相を持つ |
| 干潟 | 藤前干潟、谷津干潟、東よか干潟、荒尾干潟 | 渡り鳥の中継地であり、水質浄化の要 |
| サンゴ礁・海域 | 慶良間諸島海域、串本沿岸海域、石西礁湖 | 低潮時水深6m以下の海域として登録される |
| マングローブ林・河口域 | 名蔵アンパル、漫湖、慶良間諸島海域周辺 | 陸と海の境界で、稚魚の保育場になる |
| カルスト地下水系 | 秋吉台地下水系 | 地下を流れる水の系。日本で唯一の登録タイプ |
| 水田・農業湿地 | 蕪栗沼・周辺水田、蓮田(渡良瀬遊水地の一部) | 人が作った環境が野生生物の生息地になっている例 |
| 砂浜(ウミガメ産卵地) | 屋久島永田浜 | アカウミガメの北太平洋最大級の産卵地 |

秋吉台地下水系——見えない湿地という発想
2005年に登録された秋吉台地下水系(山口県美祢市)は、日本の登録湿地のなかでもとりわけ異色です。日本最大級のカルスト台地である秋吉台の地下には、石灰岩が溶けてできた鍾乳洞と地下水路が網の目のように走っており、秋芳洞(あきよしどう)をはじめとする洞窟にはコウモリや、光の届かない環境に適応した固有の水生生物が生息しています。
地表からは湿地に見えない。それでも「水が滞り、流れ、生きものを育んでいる」という条約の定義には完全に当てはまる——この登録は、湿地保全の視野が地下にまで届いたことを示す象徴的な事例になりました。
蕪栗沼・周辺水田——人がつくった湿地を守る
宮城県大崎市・栗原市・登米市にまたがる蕪栗沼・周辺水田(面積423ヘクタール、2005年11月8日登録)は、沼だけでなく周辺の水田を含めて登録された点で国際的に注目されました。ここは伊豆沼・内沼、化女沼と並ぶ日本最大級のマガンの集団渡来地で、シーズンには10万羽を超えるマガンが飛来する年もあります。
地元では、冬のあいだ田んぼに水を張る「ふゆみずたんぼ」(冬期湛水)という農法が広がりました。もともとは沼に集中するガン類のねぐらを分散させ、感染症リスクを下げる目的も持つ取り組みですが、結果として水鳥のねぐら・水飲み場・休息所を増やし、同時に水田の生きもの(イトミミズ、ユスリカ、カエル)を豊かにして雑草を抑えるという副産物ももたらしました。農業と湿地保全が同じ場所で両立するという、日本発の実践例として知られています。
湿地はどうやって水をきれいにするのか
湿地の働きのなかで、最も直接的に人の暮らしに返ってくるのが水質浄化です。「自然のろ過装置」「地球の腎臓」といった比喩がよく使われますが、実際には物理・化学・生物の3つのプロセスが同時に動いている、かなり込み入った仕組みです。
① 物理的な働き——流れを止めて、沈めて、絡め取る
湿地に流れ込んだ水は、ヨシやマコモといった抽水植物の茂みに入ると、流速が急激に落ちます。速度が落ちれば、水が運んできた土砂や有機物の粒子は沈殿します。植物の茎や根が作る密な構造は、細かい懸濁物を絡め取るフィルターとしても働きます。この段階だけで、濁りの原因物質やそれに吸着した栄養塩・重金属のかなりの部分が水から取り除かれます。
② 化学的・生物的な働き——脱窒という「窒素を空に返す」反応
水質汚濁の主役である窒素を扱えるのが、湿地の最も価値ある能力です。湿地の底質は、表層はわずかに酸素がある一方、数ミリ下はすぐ酸素のない環境(嫌気層)になります。この好気層と嫌気層が薄く隣り合っている構造が決定的に重要です。
- 好気層では、硝化菌がアンモニア態窒素を亜硝酸・硝酸へと酸化する(硝化)
- 生じた硝酸は、すぐ下の嫌気層へ拡散する
- 嫌気層では、脱窒菌が硝酸を呼吸に使い、最終的に窒素ガス(N₂)として大気へ放出する(脱窒)
- 結果として、窒素は水系から完全に取り除かれる
重要なのは4番目です。植物が吸収するだけの浄化は、植物が枯れれば栄養塩が水に戻ります。しかし脱窒は窒素を大気という巨大なプールに返してしまうため、水系から本当に「消える」のです。下水処理場が高度処理でやっていることを、湿地は無料でやり続けています。
③ 生きものによるろ過——二枚貝という働き者
干潟では、アサリやハマグリなどの二枚貝が水中の植物プランクトンや有機懸濁物を濾しとります。水産庁の資料によれば、カキ1個が1日にろ過する海水は約400リットルにのぼり、広島湾の海水を約5日で濾し切る計算になるとされています。取り込まれた有機物は貝の体や糞・擬糞として底質に移され、そこでゴカイやカニ、微生物によってさらに分解されていきます。
干潟の浄化機能をより詳しく知りたい方は、干潟の保全を徹底解説|命を育み水を浄化する泥の海と再生への挑戦もあわせてお読みください。

浄化力はどれくらいか——そして、その限界
では、湿地の浄化力は数字にするとどの程度なのでしょうか。環境省の資料では、干潟・浅場が沿岸域の全流入負荷量に対して果たす浄化量は、窒素で2〜9%程度と見積もられています。これを「思ったより小さい」と感じるか「無償でこれだけやっている」と感じるかは評価が分かれるところですが、確かなのは湿地の浄化力には上限があるという事実です。
「湿地があるから汚してよい」ではない
- 浄化能力を超える汚濁が流入すれば、湿地自体が富栄養化して生態系が壊れる
- 底質に有機物が過剰にたまると、貧酸素化して硫化水素が発生し、貝類が大量死する
- 谷津干潟(千葉県)ではアオサの大量発生と腐敗が長年の課題になっている
- 浄化はあくまで「流入負荷を減らす努力」とセットで機能する補助的な仕組み
生きものを育む——ゆりかごとしての湿地
湿地は地球の陸地面積のごく一部を占めるにすぎませんが、そこに集まる生物の密度は際立っています。淡水と塩水、有機物と光、浅さと隠れ場所——生物が必要とする条件が一か所に重なるからです。
渡り鳥の「給油所」としての湿地
日本の湿地の国際的な価値を最も分かりやすく説明するのが、渡り鳥の存在です。日本列島は東アジア・オーストラリア地域フライウェイ(EAAF)という、シベリア・アラスカからオーストラリア・ニュージーランドまでを結ぶ渡りのルートのちょうど中間に位置しています。このフライウェイは世界に9つあるフライウェイのなかでも、利用する渡り鳥の種数が最多である一方、沿岸湿地の消失率が最も高いルートでもあります。
たとえばオオソリハシシギやキョウジョシギは、繁殖地と越冬地のあいだを1万キロ以上移動します。その途中で日本の干潟に降り、数週間で体重を1.5倍近くまで増やしてから次の飛行に出る。干潟が1か所失われることは、彼らにとって高速道路のサービスエリアが突然消えるようなものです。渡り鳥と干潟の関係についてはシギ・チドリと干潟の危機——東アジア渡り鳥フライウェイと中継地保全で詳しく扱っています。

マガン10万羽——蕪栗沼と伊豆沼が支える冬
宮城県北部の伊豆沼・内沼、蕪栗沼、化女沼という3つの登録湿地は、日本最大級のマガンの越冬地群を形成しています。9月下旬から飛来しはじめ、2月下旬まで滞在するマガンは、夜は沼をねぐらにし、朝になると周囲の水田へ落ち穂や二番穂を食べに出ていきます。
この「沼で寝て、田んぼで食べる」という生活様式は、自然の湿地と人の農地がセットで成立していることを意味します。ラムサール条約が蕪栗沼を「周辺水田を含めて」登録したのは、まさにこの一体性を制度として認めたからでした。ふゆみずたんぼの取り組みは、その理念を農法という具体的な形にした実践です。
汽水域が育てる魚介——「海のゆりかご」という機能
河口や干潟の汽水域は、多くの魚介類にとって幼少期を過ごす場所です。塩分濃度が変動する環境は大型の捕食者にとって住みにくく、その一方で餌となる有機物と微小生物は豊富。捕食圧が低く、餌が多いという条件は、成長期の稚魚にとって理想的です。スズキ、クロダイ、ハゼ類、そしてクルマエビやガザミといった有用種の多くが、生活史のどこかで干潟や河口に依存しています。
つまり湿地を失うことは、漁業資源を将来にわたって細らせることでもあります。宍道湖のシジミ、有明海のノリと魚類、三河湾のアサリ——日本の水産物の少なくない部分が、湿地の健全さの上に成り立っています。
気候変動と湿地——炭素を貯め、洪水を和らげる
近年になって湿地の評価が急速に高まっている理由が、気候変動への対応です。湿地は炭素を貯めると同時に、気候変動がもたらす災害を和らげるという、緩和と適応の両面で効く数少ない生態系です。
泥炭地——陸地の3%で、土壌炭素の30%
湿地のなかでも、炭素貯留の主役は泥炭地(ピートランド)です。水に浸かって酸素が乏しい環境では、植物の遺骸が完全に分解されずに堆積し、何千年もかけて厚い泥炭層をつくります。その結果、泥炭地は地球の陸地面積の約3%を占めるにすぎないのに、土壌に含まれる炭素の約30%を蓄えているとされます。これは世界中の森林が蓄える炭素のおよそ2倍にあたる量です。
問題は、この炭素が「水に守られている」という点にあります。排水して乾かせば、酸素が入り込んで分解が一気に進み、蓄えられていた炭素は二酸化炭素として大気へ放出されます。乾燥・劣化した泥炭地からの排出は、世界の温室効果ガス年間排出量の約5%を占めると見積もられています。北海道のサロベツ原野や釧路湿原も泥炭湿原であり、農地転換のための排水が湿原の乾燥化を招いた歴史があります。
干潟・藻場のブルーカーボン
沿岸湿地が蓄える炭素はブルーカーボンと呼ばれます。マングローブ林、塩性湿地、海草藻場は、面積あたりの炭素貯留速度が熱帯雨林を上回るともいわれ、しかも堆積物中に長期間安定して固定されます。日本ではアマモ場やコンブ場の再生をブルーカーボン・クレジットとして評価する仕組み(Jブルークレジット)も動きはじめました。詳しくはブルーカーボンとは?マングローブと海草藻場が海に炭素を貯めこむ仕組みと日本の挑戦で解説しています。
洪水を和らげる「緑のインフラ」
湿地は、増水時に水を一時的にため込む天然の遊水地でもあります。氾濫原の湿地は、上流から来た洪水のピークを削り、下流の被害を軽減します。渡良瀬遊水地(栃木・群馬・埼玉・茨城)はまさにこの機能を目的として整備され、2012年にラムサール条約湿地に登録されました。治水施設でありながら、貴重なヨシ原の生態系とオオタカ・チュウヒなどの猛禽類を支えているという、二重の価値を持つ場所です。
近年、気候変動で豪雨が激甚化するなか、ダムや堤防といったグレーインフラだけに頼らず、湿地・森林・氾濫原といった自然の機能を活かすグリーンインフラ/Eco-DRR(生態系を活用した防災・減災)が国内でも政策に位置づけられつつあります。湿地の保全は、生きもののためだけでなく、私たち自身の安全のための投資でもあるという見方です。
湿地が返してくれる4つの働き(まとめ)
- 水の浄化:沈殿・吸着・脱窒・二枚貝のろ過で、窒素やリンを水系から取り除く
- 生きものの育み:渡り鳥の中継地、稚魚の保育場、固有種のすみか
- 炭素の貯留:泥炭地は陸地3%で土壌炭素の30%。沿岸湿地はブルーカーボン
- 災害の緩和:洪水のピークカット、高潮・波浪の減衰、地下水の涵養
失われてきた日本の湿地——61%減という現実
ここまで湿地の価値を見てきましたが、その裏側には厳しい数字があります。日本の湿地は、この100年あまりで大きく姿を消しました。
明治・大正期の21.1万haが、1980年代には8.2万haに
国土地理院が明治・大正期の地形図と現代の地図を比較した調査によると、日本の湿地面積は明治・大正期の約21.1万ヘクタールから、1980年代には約8.2万ヘクタールへと61%減少しました。さらに、失われた湿地の約50.7%は農地に変わったことも明らかになっています。残りは市街地、工業用地、道路などです。
この数字を「破壊の記録」とだけ読むのは、おそらく公平ではありません。食料が足りなかった時代に、湿地を干拓して水田にすることは国家的な要請でした。北海道の泥炭地の開発も、戦後の食料増産と入植政策の一環でした。ただし、当時は湿地が果たしている水質浄化や治水の機能がほとんど知られていなかった——つまり私たちは、価値を知らないまま取引をしていたのです。
干潟は約4割が消えた
海と陸の接点である干潟の減少は、さらに急でした。環境省の自然環境保全基礎調査などによれば、日本の干潟面積は1945年ごろから1990年代までの約50年間で約41%が失われたとされています。東京湾、伊勢湾・三河湾、大阪湾、有明海——高度経済成長期の埋め立ては、まさに干潟を狙って行われました。浅くて工事しやすく、地権者が少ない場所だったからです。
干潟がどのような経緯で埋め立てられ、いま何が起きているかについては干潟はなぜ埋め立てられたのか|日本が失った3万haの歴史と東京湾・有明海の現在で詳述しています。
藤前干潟——市民が埋め立てを止めた
その流れに例外的なブレーキがかかった場所が、名古屋市の藤前干潟です。伊勢湾の奥、庄内川・新川・日光川の河口に広がるこの干潟は、1980年代からごみ処分場としての埋め立てが計画されていました。ごみの最終処分場が逼迫していた名古屋市にとって、埋め立ては現実的な解決策に見えていたのです。
しかし、藤前干潟が渡り鳥の重要な飛来地であることを訴える市民・研究者・NGOの活動が10年以上にわたって続き、環境影響評価をめぐる議論を経て、1999年1月、名古屋市は埋め立て計画の断念を表明しました。
ここからが日本の環境史でも稀な展開です。処分場という受け皿を失った名古屋市は、翌2月に「ごみ非常事態宣言」を出し、市を挙げて分別とリサイクルの徹底に踏み切りました。結果として市のごみ量は大幅に減少し、「干潟を守ったら、ごみが減った」という因果が現実になったのです。藤前干潟は2002年11月18日、ラムサール条約湿地に登録されました。
藤前干潟が示したこと
- 自然保護は「開発を止めること」で終わらず、代わりの社会システムを作る契機になりうる
- 市民が科学的な根拠(渡り鳥の飛来データ)を積み上げたことが決定打になった
- ラムサール登録は保護の「結果」であり、地域の合意があってはじめて成立する
- 登録から20年以上たった現在は、漂着ごみやマイクロプラスチックという新しい課題に直面している
「賢明な利用(ワイズユース)」——守るのではなく、賢く使う
ラムサール条約を理解するうえで、最も誤解されやすいのが「登録されると何もできなくなる」という思い込みです。実際には正反対で、条約の中核概念はワイズユース(賢明な利用)——湿地の生態系としての性格を保ちながら、人が使い続けることにあります。
ワイズユースとは何か
条約はワイズユースを「生態系アプローチの枠組みのなかで、持続可能な開発の達成に資するように湿地の生態学的特徴を維持すること」と定義しています。噛み砕けば、「使ってよい。ただし、湿地が湿地であり続ける範囲で」ということです。
- 宍道湖のシジミ漁は、資源管理をしながら続けられている湿地の利用そのもの
- 蕪栗沼のふゆみずたんぼは、稲作という産業のなかで水鳥の生息環境を増やした例
- 釧路湿原ではカヌーツアーや展望台からの観察が地域の観光資源になっている
- 沖縄の漫湖や名蔵アンパルでは、マングローブ林を活かした環境教育プログラムが定着している
CEPA——伝わらなければ守られない
3つめの柱であるCEPA(Communication・Capacity building・Education・Participation・Awareness=広報・能力育成・教育・普及啓発・参加)は、地味に見えて条約の生命線です。湿地の価値は、干潟の泥やヨシ原の茂みを見ただけでは伝わりません。解説する人がいてはじめて、価値は共有されるのです。
日本各地の登録湿地にはビジターセンターや水鳥・湿地センターが置かれ、観察会や出前授業が行われています。子どもが干潟でカニを掘った記憶は、20年後にその干潟を守る票になるかもしれない——CEPAとはそういう長い時間軸の投資です。

登録が地域にもたらすもの
ラムサール条約への登録は、法的な規制を新たに課すものではありません(既存の自然公園法や鳥獣保護管理法による保護が前提条件になっているため)。それでも登録には実際的な効果があります。
| 効果 | 内容 |
|---|---|
| 国際的なお墨付き | 「国際的に重要な湿地」という肩書きが、地域の誇りと対外的な発信力になる |
| 観光・交流人口 | バードウォッチング、エコツアー、観察施設への来訪が増える |
| 環境教育の拠点化 | 学校の校外学習や研究のフィールドとして活用される |
| ブランド化 | 登録湿地の周辺で生産された農水産物のブランド価値(例:ふゆみずたんぼ米) |
| 保全の継続性 | 国際的な報告義務があるため、モニタリングと管理計画が継続しやすくなる |
湿地自治体認証(Wetland City Accreditation)
近年、条約は湿地の保全と賢明な利用に熱心に取り組む都市を認証する「湿地自治体認証制度」を設けました。湿地に隣接し、その保全に地域ぐるみで取り組む自治体が対象で、日本からも認証を受けた都市が生まれています。自然と都市を対立させるのではなく、都市の中に湿地を位置づける発想への転換です。
これからの湿地——世界の警告と、私たちにできること
2025年7月、ジンバブエのヴィクトリアフォールズで開かれた第15回締約国会議(COP15)に合わせて、条約事務局は『Global Wetland Outlook 2025(世界湿地概況2025)』を公表しました。その内容は、控えめに言っても深刻です。
39兆ドルが失われるという試算
- 1970年以降、世界では推定4億1,100万ヘクタールの湿地が失われ、これは湿地面積の22%減にあたる
- 過去50年間に失われた湿地の経済的価値は5.1兆ドルを超える
- 対策を取らなければ、2050年までに残る湿地の5分の1が消失する恐れがある
- その場合、人と経済と自然を支える便益として最大39兆ドルが失われると試算されている
39兆ドルという数字は、湿地が「無料で提供してきたサービス」を市場価格に換算したものです。私たちがこれまで支払わずに受け取ってきた分を、失ったあとに人工的な設備(浄水施設、堤防、養殖場)で埋め合わせようとしたら、それだけの費用がかかるという意味でもあります。COP15では、こうした認識のもと2025〜2030年の新たな湿地行動枠組が採択されました。
30by30と湿地——日本の次の課題
2022年に採択された昆明・モントリオール生物多様性枠組は、2030年までに陸と海のそれぞれ30%以上を保全する(30by30)という目標を掲げています。日本もこれに沿って、国立公園などの保護地域に加え、企業の緑地や社寺林、里山、そして農業湿地のように保護地域ではないが生物多様性の保全に貢献している場所を「自然共生サイト」として認定する仕組みを始めました。
湿地はこの枠組みと相性がよい生態系です。ふゆみずたんぼのように、農業として営まれながら生きものを支えている土地は、日本各地にまだ眠っています。54か所という登録数を増やすことだけが目標ではなく、登録されていない小さな湿地——ため池、休耕田、河畔林の後背湿地、都市の湧水地——をどう残すかが、これからの実質的な課題です。
今日からできる5つのこと
- 2月2日「世界湿地の日」前後のイベントに参加する——全国の登録湿地で観察会や講座が開かれる
- 近くの登録湿地を訪ねる——54か所のうち、意外に自宅から日帰りで行ける場所がある。ビジターセンターは無料のところが多い
- 干潟や湿原では決められた場所を歩く——踏圧は植生と底生生物に直接ダメージを与える。木道と観察路を守る
- 生活排水の窒素・リンを減らす——食器の油をふき取ってから洗う、洗剤を適量にする。流入負荷を減らすことが湿地の浄化力を守る
- 登録湿地周辺の産品を選ぶ——ふゆみずたんぼ米や、資源管理の行き届いたシジミ・アサリを買うことは、賢明な利用への直接的な支持になる
この記事のまとめ
- ラムサール条約は1971年採択、湿地という生態系タイプを対象にした世界最初の環境条約。「保全・再生」「賢明な利用」「交流・学習」の3本柱で運用される
- 日本の登録湿地は2025年7月の猪苗代湖の追加で54か所。1980年の釧路湿原に始まり、2005年のCOP9で一気に20か所が加わった
- 条約のいう「湿地」は沼だけでなく、干潟・サンゴ礁・カルスト地下水系・水田・砂浜まで含む
- 湿地は水を浄化し(脱窒・二枚貝のろ過)、生きものを育み、炭素を貯め(泥炭地は陸地3%で土壌炭素の30%)、洪水を和らげる
- 日本の湿地は明治・大正期から61%減、干潟は約41%減。ただし藤前干潟のように、市民の行動が流れを変えた例もある
- 鍵は「賢明な利用」。使いながら守る発想と、身近な小さな湿地を残す努力が、これからの課題になる
参考文献・出典
- 環境省 – ラムサール条約と条約湿地|日本の条約湿地(54か所の一覧・登録年月日・面積)
- 環境省 – ラムサール条約湿地とは(国内登録の3要件・国際基準の解説)
- Convention on Wetlands(ラムサール条約事務局) – Global Wetland Outlook 2025 warns of $39 trillion loss without urgent action
- 国土地理院 – 日本全国の湿地面積変化の調査結果(明治・大正期から1980年代までの湿地面積の推移)
- 環境省 生物多様性センター – 自然環境保全基礎調査 干潟調査(全国の干潟面積とその変化)
- 水産庁 – 干潟の働きと現状(水質浄化機能・二枚貝によるろ過・干潟面積の推移)
- 環境省 – ラムサール条約湿地リーフレット「蕪栗沼・周辺水田」(面積423ha・ふゆみずたんぼ)
- 名古屋市 – ごみ非常事態宣言(藤前干潟の埋め立て断念とごみ減量の経緯)
- 環境省 生物多様性センター – 蕪栗沼のふゆみずたんぼ|生態系サービスへの支払い(PES)日本の優良事例
- East Asian–Australasian Flyway Partnership(EAAFP) – 東アジア・オーストラリア地域フライウェイ・パートナーシップ公式サイト
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