北海道の東、釧路の市街地から車で30分ほど北へ走ると、視界が一気に開ける。地平線まで続く緑の平原、その中を大きく蛇行しながら光る川。釧路湿原——日本の湿原の約6割を占めるといわれる、国内最大の湿原地帯だ。1980年には日本で最初のラムサール条約登録湿地となり、1987年には国立公園に指定された。
しかしこの風景は、けっして「手つかずのまま残った原野」ではない。第二次世界大戦後の食料増産と都市の拡大のなかで、湿原は排水され、川はまっすぐに切り替えられ、周囲の森は伐られた。その結果、1947年に281.35km²あった湿原は、2000年には193.57km²にまで縮小した。53年間で87.78km²、東京23区の約1.4倍にあたる面積が失われた計算になる。
この記事では、釧路湿原がどのようにしてできたのか、なぜ縮み乾いていったのか、そして2003年の自然再生推進法をきっかけに始まった「川を曲げ直す」という異例のプロジェクトが何をもたらしたのかを、環境省・国土交通省北海道開発局・北海道庁の一次資料にあたりながら追っていく。最後に、湿原を訪ねて楽しむための入口も紹介したい。守るべき対象である前に、釧路湿原はまず「気持ちのいい場所」だからだ。
この記事で学べること
- 釧路湿原が「約2万年前の氷期 → 6000年前の海 → 3000年前の湿原」という時間の積み重ねでできたこと
- 泥炭というスポンジが水を抱え込み、湿原の姿を保っているしくみ
- 戦後の開発で湿原が3割減り、ハンノキ林が3倍以上に拡大した具体的な数値
- 川の蛇行を元に戻す「旧川復元」など、日本でも先進的な自然再生事業の中身と成果
- メガソーラー立地をめぐる近年の摩擦と、釧路市が2025年に施行した条例の位置づけ
- 湿原・川・海がひとつながりであること、そして湿原を歩いて楽しむための入口
釧路湿原とは何か——日本最大の湿原を数字でつかむ
釧路湿原は、北海道東部の釧路市・釧路町・標茶町・鶴居村にまたがって広がる低層湿原を中心とした湿地帯である。南北に約36km、東西に約25km。中心部の湿原面積はおよそ1万8,000haとされ、これは日本にある湿原の総面積の約6割にあたるといわれる。
ただし「釧路湿原の面積」と一口に言っても、どの制度の線引きで数えるかによって数字は変わる。国立公園、ラムサール条約登録湿地、天然記念物指定地——それぞれ目的が違うため、範囲も面積も一致しない。混乱しやすいところなので、まず整理しておきたい。
数字で見る釧路湿原
| 区分 | 面積・数値 | 指定年など |
|---|---|---|
| 湿原そのものの面積 | 約1万8,000ha(1万8千ha前後) | 2000年時点の植生判読で193.57km² |
| 釧路湿原国立公園 | 26,861ha | 1987年7月31日指定(日本で28番目の国立公園) |
| ラムサール条約登録湿地 | 7,863ha | 1980年6月17日登録(日本第1号、のちに拡大) |
| 南北・東西の広がり | 南北約36km/東西約25km | — |
| 泥炭層の厚さ | 厚いところで数m規模 | 堆積速度は年1mm前後とされる |
ラムサール条約の登録面積7,863haは、湿原全体(約1万8,000ha)よりかなり小さい。これは登録が「国指定鳥獣保護区の特別保護地区」を基礎にしているためで、湿原の一部が制度上の傘の外にあることを意味する。国立公園の26,861haという数字も、湿原だけでなく周囲の丘陵地や湖沼、河川を含んだ広域の区域面積だ。
「原野」ではなく、水を溜めて流す装置
湿原を見た多くの人が最初に抱く印象は「何もない平原」だろう。だが地表の下では、まったく違うことが起きている。湿原の土は、枯れた植物が分解されきらずに積み重なった泥炭(でいたん)で、これが巨大なスポンジのように水を抱え込んでいる。
雨が降れば泥炭が水を吸って洪水のピークを和らげ、乾いた時期にはゆっくり水を吐き出して川の流れを支える。同時に、流れてくる窒素やリンを植物と微生物が取り込み、水質を浄化する。さらに、分解されずに残った植物遺体の炭素は、地中に閉じ込められたまま数千年ものあいだ大気に戻らない。湿原は「何もない場所」どころか、洪水調節・水質浄化・炭素貯留・生物の生息地という4つの仕事を同時にこなす、極めて働き者の土地なのだ。
この記事の見取り図
- 成り立ち:氷期 → 縄文海進で海になる → 砂州で閉じられ湿原へ(2〜3章)
- 生きもの:タンチョウ・イトウ・キタサンショウウオが示す湿原の健康度(4章)
- 危機:53年で87.78km²減、ハンノキ林3.4倍という乾燥化の実態(5章)
- 再生:川を曲げ直す旧川復元、土砂調整地、森林再生(6章)
- いま:メガソーラー立地の摩擦と条例(7章)/湿原と海のつながり(8章)/訪ね方(9章)
2万年の時間が作った土地——ここはかつて海だった
釧路湿原の成り立ちを理解する鍵は、「海面がどこにあったか」だ。湿原は長い時間をかけて、海だった場所が陸になり、その陸が水を抱えたまま固定された結果として生まれている。
約2万年前——最終氷期の谷
最終氷期のピーク、およそ2万年前。地球上の水の多くが氷床として陸に固定され、海面は現在より100m以上低かった。このころの釧路一帯は海ではなく、川が深く刻んだ谷だった。いま湿原の地下深くに埋もれている古い河谷の地形は、この時代に作られたものだ。
約6000年前——縄文海進で「古釧路湾」ができる
氷期が終わって気候が温暖化すると、氷床が融けて海面が上昇した。日本各地の平野に海が入り込んだ縄文海進である。釧路でも例外ではなく、約6000年前には、いま湿原が広がっている低地のほぼ全域が海の底に沈み、内湾になっていた。これを古釧路湾と呼ぶ。
つまり、タンチョウが舞い、ヨシが揺れているあの平原は、縄文時代の人々にとっては波の打ち寄せる湾だったということだ。湿原の地層を掘ると、海に棲む貝の化石が出てくることがあるのは、この時代の記憶である。

約3000年前——砂州が湾を閉じ、泥炭が積み上がりはじめる
その後、気候がやや寒冷化して海面が下がる海退が始まる。同時に、沿岸流が運ぶ砂が湾の入口に砂州(さす)を発達させ、湾はしだいに外海から切り離されていった。約3000年前には湾口がほぼ閉じ、残された水域は淡水化して、浅い湖沼と湿地の集合体になる。
ここから泥炭の時代が始まる。浅くなった水面にヨシやスゲが生い茂り、枯れて水中に沈む。ところが釧路の冷涼で多湿な気候と、水に浸かって酸素が乏しい環境では、微生物による分解が追いつかない。分解しきれない植物遺体が、年におよそ1mmという気の遠くなるような速さで積み上がっていった。1mずつ積むのに約1000年。いま足元にある泥炭層は、そのまま数千年分の時間の厚みである。
釧路湿原ができるまでの年表
- 約2万年前:最終氷期。海面は現在より100m以上低く、この一帯は川に刻まれた谷だった
- 約6000年前:縄文海進のピーク。低地が海に沈み「古釧路湾」となる
- 約3000年前:海退と砂州の発達で湾口が閉じ、淡水化。ヨシ・スゲが繁茂し泥炭の堆積が始まる
- 以降現在まで:年1mm前後のペースで泥炭が積み重なり、日本最大の湿原が形成される
- 1858年:松浦武四郎が釧路川を丸木舟で下り、湿原を記録に残す
- 1980年:日本初のラムサール条約登録湿地に/1987年:国立公園に指定
湿原を支えるしくみ——泥炭・地下水位・3つのタイプ
湿原が湿原であり続けるための条件は、驚くほどシンプルだ。「水が抜けないこと」。この一点に尽きる。逆に言えば、水が抜けはじめた瞬間から、湿原は湿原でなくなっていく。
泥炭は水を抱えるスポンジであり、同時に炭素の金庫でもある
泥炭は、体積の8〜9割が水で占められることもある、極端に保水力の高い土だ。この泥炭層が水を抱え込み、地下水位を地表すれすれに保つことで、ヨシやスゲといった湿地植物が優占できる環境が維持される。地下水位が地表近くにあるうちは、泥炭は水に守られて分解されず、そこに閉じ込められた炭素も動かない。
ところが排水路が掘られたり、川底が下がったりして地下水位が下がると、泥炭の上部が空気に触れる。すると微生物による分解が一気に進み、泥炭は縮んで地盤が沈下し、蓄えられていた炭素は二酸化炭素として大気に戻りはじめる。乾燥化は、単に景色が変わるという話ではない。数千年かけて貯めた炭素が数十年で漏れ出す、地味だが規模の大きい変化なのだ。
低層湿原・中間湿原・高層湿原
湿原は、水の供給源と栄養の豊かさによって3つのタイプに分けられる。釧路湿原はこのうち低層湿原が大半を占めるが、赤沼周辺など一部には高層湿原も見られ、1か所で湿原の遷移の姿を観察できるのが特徴だ。
| タイプ | 水の供給 | 栄養 | 代表的な植物 |
|---|---|---|---|
| 低層湿原 | 河川水・地下水 | 豊富(富栄養) | ヨシ、スゲ類、ハンノキ |
| 中間湿原 | 河川水と雨水の中間 | 中程度 | ヌマガヤ、ミズゴケの一部 |
| 高層湿原 | ほぼ雨水のみ | 乏しい(貧栄養) | ミズゴケ、ツルコケモモ、モウセンゴケ |

乾燥化はなぜ起きるのか——3つの経路
釧路湿原で進行してきた乾燥化には、大きく3つの経路がある。いずれも「水が抜ける」「土砂が乗る」という物理的な変化に集約される。
- 排水と河川改修:農地や宅地にするために排水路を掘り、川を直線化すると、水がすばやく下流へ抜けて地下水位が下がる。直線化された川は流速が増して川底を削り、周囲の水位をさらに引き下げる
- 土砂の流入:流域の森林伐採や農地開発で裸地が増えると、雨のたびに土砂が川へ流れ込む。湿原の入口で土砂が堆積すると、そこは泥炭ではなく普通の土壌になり、乾いた土地に変わる
- 栄養塩の流入:畜産排水や肥料由来の窒素・リンが流れ込むと、貧栄養に適応した湿原植物より、栄養を好むハンノキやオオアワダチソウなどが有利になり、植生が置き換わる
この3つが同時に進むと、湿原は「乾く」だけでなく「別の生態系に変わる」。次章で見るハンノキ林の急拡大は、その最もわかりやすい指標である。
ヤチボウズ——湿原が自分で作る不思議な造形
釧路湿原を歩くと、直径30〜50cmほどの草の株が、まるでこけしのように点々と立っている光景に出会うことがある。地元でヤチボウズ(谷地坊主)と呼ばれるもので、スゲ類が作る独特の地形だ。
でき方はこうだ。スゲの株が地面に根を張って生育していると、冬の凍結と春の融解が繰り返されるうちに、株の周囲の土が凍上(とうじょう)で持ち上げられたり、融雪水に削られたりする。株の中心部は根がしっかり土を抱えているので削られず、周囲だけが低くなっていく。これが何十年も続くと、株だけが柱のように残って「坊主」になる。ひとつのヤチボウズは、それだけで数十年分の凍結融解の記録である。
ヤチボウズの間の低いところには水が溜まり、株の上は乾いた小さな島になる。この高低差わずか数十センチの凹凸が、湿った場所を好む生きものと乾いた場所を好む生きものの両方に居場所を与えている。湿原の「のっぺりした平原」という印象は、近づくと崩れる。実際には、ミリ単位・センチ単位の起伏が積み重なった、きわめて凹凸に富んだ世界なのだ。
湿原に生きるものたち——タンチョウ・イトウ・キタサンショウウオ
湿原の健康状態は、そこに暮らす生きものに正直に現れる。釧路湿原には、日本の他の場所ではほとんど見られない種が集まっており、それぞれが湿原の異なる側面を必要としている。
タンチョウ——一度は絶滅したと思われた鳥
釧路湿原を象徴する鳥、タンチョウ。かつて北海道に広く分布していたが、明治以降の乱獲と湿地の開発で激減し、大正時代には絶滅したとさえ考えられていた。1924年に釧路湿原で十数羽が再発見され、そこから保護の歴史が始まる。1950年代に地元の人々が始めた冬期の給餌が転機となり、個体数は着実に回復していった。
北海道が環境省の委託で実施している越冬期の一斉調査では、2025年12月の調査で1,136羽(うち成鳥982羽、幼鳥113羽、飼育個体38羽など)が確認されている。ただし近年は越冬地が道東各地に分散し、給餌場に集まらない個体が増えたため、この調査数は生息数そのものではなく「確認できた数」である点に注意が必要だ。実際の生息数はおよそ1,800羽程度と見積もられている。
個体数の回復は保護活動の成果だが、新しい課題も生んでいる。給餌場への集中は感染症が広がるリスクを高め、分布の拡大は農地での食害や電線との衝突といった軋轢を増やす。「増えたから終わり」ではなく、給餌への依存を減らしながら自然分散を支える段階に入っている。

イトウ——日本最大の淡水魚が求める「曲がった川」
イトウはサケ科の大型魚で、成長すれば1mを超える日本最大の淡水魚だ。かつては北海道の多くの河川にいたが、現在はごく限られた水系にしか残っていない。環境省レッドリストで絶滅危惧種、IUCNのレッドリストでも高い危機ランクに位置づけられている。
イトウが減った理由は湿原の問題と直結している。産卵には砂利底の細流が要り、稚魚は流れの緩い淀みで育ち、成魚は深い淵に潜む——つまり川が曲がりくねって多様な水深と流速を持っていることが生存の前提なのだ。直線化されて一様な流れになった川では、この住み分けが成立しない。イトウは、川の「複雑さ」そのものを必要とする魚だといえる。
キタサンショウウオ——氷期の生き残り
キタサンショウウオは、日本では釧路湿原周辺にしか分布しない小型の両生類で、氷期にユーラシア大陸から渡ってきた「氷期の遺存種」と考えられている。春先、雪解け水がたまる浅い水たまりに、ゼリー状の卵のうを産みつける。
この繁殖様式が保全を難しくしている。必要なのは大きな湖でも川でもなく、春だけ現れる浅い水たまりと、その周囲の湿った草地だ。地図上では「ただの空き地」に見える場所が生息地であることが多く、開発計画の段階で見落とされやすい。環境省レッドリストでは2020年にランクが2段階引き上げられ、2022年には種の保存法に基づく指定を受けた。釧路市では市の天然記念物としても指定され、生息に影響する切土・盛土・埋立ては市条例の手続きの対象になっている。
足元の主役——ヨシ、スゲ、そして季節の花
希少種ばかりが注目されるが、湿原の風景を作っているのは圧倒的な量のヨシとスゲである。ヨシは高さ2mを超えて茂り、夏には人の背丈をはるかに超える緑の壁になる。この密生した群落が、タンチョウの営巣を隠し、小鳥や昆虫に住みかを与え、そして枯れたあとは泥炭となって湿原そのものを作り足していく。
季節ごとに花も変わる。初夏の湿原ではエゾカンゾウが黄橙色の花を一面に咲かせ、ワタスゲが白い綿毛を風に揺らす。高層湿原の側ではミズゴケのじゅうたんの上にモウセンゴケ(食虫植物)やツルコケモモが小さく暮らしている。ミズゴケは自分の周囲を酸性に保つ性質があり、他の植物が入り込みにくい環境を作り出す。貧栄養・強酸性という過酷な条件を、自ら作って生き延びているわけだ。
こうした植物の顔ぶれは、その場所の水と栄養の状態を映す鏡でもある。ヨシやハンノキが増えていれば栄養が豊かで乾きはじめているサイン、ミズゴケやモウセンゴケが健在なら貧栄養で湿った状態が保たれているサイン。植物を見れば、湿原の健康診断がある程度できる——モニタリングで植生判読が重視されるのは、そのためだ。
3種が示している、それぞれ違う「湿原の必要条件」
- タンチョウ:営巣できる広く見通しのよい湿原と、冬に凍らない川(=面としての湿原)
- イトウ:蛇行して淵・瀬・細流が揃った川(=川の複雑さ)
- キタサンショウウオ:春に現れる浅い水たまりと湿った草地(=小さな水環境のモザイク)
- つまり湿原保全は「広さ」「川の形」「細かな水環境」の3層を同時に守らないと成立しない
失われた3割——戦後50年で湿原に何が起きたのか
ここからが本題である。釧路湿原は、20世紀後半に急速に縮小した。しかもその縮小は、開発の勢いが最も強かった時期ではなく、その後もしばらく続いた。
53年間で87.78km²——年1.66km²ずつ消えた
環境省の釧路湿原自然再生プロジェクトデータセンターが公開している植生判読の結果によれば、湿原面積の推移は次のとおりである。
| 年 | 湿原面積 | 1947年比 |
|---|---|---|
| 1947年 | 281.35km²(28,135ha) | — |
| 1970年 | 240.87km²(24,087ha) | ▲14.4% |
| 2000年 | 193.57km²(19,357ha) | ▲31.2% |
53年間で87.78km²の減少は、年平均にすると1.66km²。毎年、東京ドーム35個分ほどの湿原が静かに姿を消していた計算になる。しかも減少は1947〜1970年より1970〜2000年のほうが大きい。開発のピークが過ぎたあとも、いったん始まった乾燥化は自律的に進行するということだ。
ハンノキ林が50年で3.4倍に——「緑が増えた」は良い知らせではない
湿原が減る一方で、面積を増やしたものがある。ハンノキ林だ。判読結果によれば、ハンノキ林の面積は1947年の21.0km²から、1977年に29.4km²、1996年には71.3km²へと拡大した。50年で約3.4倍、しかも直近20年での増加が特に急である。
ハンノキは湿地に生える在来の樹木であり、それ自体が悪者なのではない。問題は、ハンノキ林の拡大が「そこはもうヨシ・スゲの湿原ではなくなった」というサインだという点にある。ハンノキは地下水位が下がって土壌に酸素が入り、なおかつ窒素分が供給される場所で急速に優占する。上空から見れば緑は緑だが、生態系としては別物に置き換わっている。
この「緑の置き換わり」は、衛星画像や航空写真だけを見ていると見逃されやすい。植生を丁寧に判読して初めて、湿原の内部で起きている変質が数字として立ち上がってくる。
何が引き金だったのか
- 戦後の食料増産と農地開発:湿地を排水して牧草地・農地に転換する事業が広く進められ、湿原の縁が削られていった
- 河川の直線化:洪水対策と土地利用のため、蛇行していた川がまっすぐに付け替えられた。流下が速くなり、周囲の地下水位が下がった
- 流域の森林伐採と裸地化:丘陵地の伐採や農地化で土壌が露出し、雨のたびに大量の土砂が川を通じて湿原へ流入した
- 市街地の拡大:湿原南部では宅地造成のための排水が進み、湿原の縁が市街地に置き換わった
乾燥化の「時間差」に注意
湿原の乾燥化は、開発行為が終わったあとも長く続く。排水や河床低下で一度下がった地下水位は自然には戻らず、泥炭の分解と地盤沈下がさらに水はけを良くしていくためだ。だからこそ、放置ではなく能動的な「再生」が必要になった。
川を曲げ直す——釧路湿原自然再生事業の現場
2003年に自然再生推進法が施行されると、同年、関係行政機関・NPO・研究者・地域住民・農林漁業者などが集まる釧路湿原自然再生協議会が設立された。2005年に「釧路湿原自然再生全体構想」がまとめられ(2015年に改定)、湿原・河川・森林・湖沼・地下水など複数のテーマごとに小委員会を置いて、具体的な事業が進められている。日本の自然再生事業のなかでも、規模と継続年数の両面で先駆的な取り組みだ。
茅沼地区の旧川復元——直線化した川を、元の蛇行に戻す
最も知られているのが、標茶町の茅沼(かやぬま)地区で行われた旧川復元である。この区間の釧路川は、1970年代に周辺の農地開発などを目的として直線化されていた。その結果、流れが速くなって川底が掘れ、周囲の地下水位が下がり、湿原植生が減って土砂の流下も増えるという悪循環に陥っていた。
事業では、埋め立てられずに残っていた旧河道を掘り直し、直線化された水路を埋め戻すという、当時としては大胆な方法がとられた。2007年から工事が進められ、2011年3月に完了。約1.6kmの直線河道を埋め戻し、約2.4kmの蛇行した旧川に水を戻した。事業費はおよそ9億円である。
| 項目 | 直線化後(復元前) | 旧川復元後 |
|---|---|---|
| 河道の形 | 直線水路 約1.6km | 蛇行河道 約2.4km |
| 流れの多様性 | 水深・流速が一様 | 淵・瀬・ワンドが再生 |
| 洪水時の挙動 | 速やかに下流へ流下 | 周囲の氾濫原へあふれ、地下水位が上昇 |
| 湿原植生 | 減少・乾燥化が進行 | 約30haの湿原植生が回復(モニタリング結果) |
| 魚類・水生昆虫 | 上流の直線区間より種数が少ない | 種数・個体数ともに増加を確認 |
モニタリングの結果、蛇行が戻ったことで洪水時に水が周囲の氾濫原へあふれやすくなり、地下水位が上昇。約30haの湿原植生の増加が確認された。魚類・水生昆虫は上流に残る直線区間と比べて種数が多く、魚の個体数も増えていた。計画時の目標はおおむね達成されたと評価されている。長期的には、この区間で湿原植生面積が約100ha回復し、湿原中心部への土砂流入量が約3割減少することが期待されている。
興味深いのは、埋め戻した直線河道に単に土を入れたのではなく、掘削で出た土や旧川の堆積物を使い、時間をかけて自然の作用に委ねる設計思想がとられた点だ。人が完成形を作り込むのではなく、川自身が形を整えていく余地を残す——自然再生の考え方がよく表れている。

久著呂川の土砂流入対策——湿原の入口で土砂を沈める
湿原の乾燥化を招くもうひとつの主因が、流入する土砂だ。湿原北部に流れ込む久著呂川(くちょろがわ)は、流域の農地開発などの影響で土砂の流出量が多く、湿原の環境を大きく変えてきた。
対策として整備されているのが湿原流入部土砂調整地である。洪水時に濁った川の水をあえて調整地内に溢れさせ、水の流れをゆるめて細粒の土砂を沈降させる。きれいになった水だけを湿原へ送り出す仕組みだ。あわせて、流域では農地からの土砂流出を抑える営農上の工夫や、河畔林の再生も進められている。土砂の問題は湿原の中だけでは解けず、上流の土地利用まで含めた流域全体の課題であることがよくわかる。
達古武地域——森を戻し、湖を再生する
湿原東部の達古武(たっこぶ)湖周辺では、荒廃した人工林を自然林へ誘導する森林再生と、湖の水質・生態系の再生が並行して進められている。かつてカラマツなどが植えられた斜面を広葉樹主体の森へ戻すことで、土砂の流出を抑え、湖と湿原に流れ込む水を安定させるねらいがある。
達古武湖ではまた、特定外来生物のウチダザリガニの生息状況が調査され、在来の水生生物への影響が懸念されてきた。外来種対策、水質改善、森林再生——ひとつの湖の再生にも複数の課題が絡み合う。自然再生が「工事」ではなく「長期の管理」であることを示す現場だ。
釧路湿原自然再生事業のポイント
- 2003年の自然再生推進法を受け、行政・NPO・研究者・住民・農林漁業者が協議会を構成
- 2005年に全体構想を策定(2015年改定)。湿原・河川・森林・湖沼など小委員会ごとに事業を実施
- 茅沼地区:直線1.6kmを埋め戻し、蛇行2.4kmを復元(2007〜2011年、約9億円)→ 湿原植生約30ha回復
- 久著呂川:湿原流入部土砂調整地で細粒土砂を沈降させ、湿原への土砂を減らす
- 達古武地域:人工林を自然林へ誘導する森林再生、湖の水質・外来種対策
- 市民参加のモニタリングが組み込まれ、効果検証が公開されている
いま起きている摩擦——メガソーラー立地と湿原の線引き
近年、釧路湿原をめぐって新しい論点が生まれている。太陽光発電施設、とくに大規模なメガソーラーの立地問題だ。脱炭素のための再生可能エネルギー拡大と、生物多様性保全という、どちらも重要な目標がぶつかる典型的なケースとして、全国の注目を集めた。
なぜ湿原の周辺に建つのか
問題の中心は、湿原そのものではなく湿原の南部・周縁部にあたる平坦な土地である。ここは国立公園の特別地域やラムサール登録区域の外側にあたることが多く、法的な開発規制が相対的に弱い。一方で、キタサンショウウオをはじめとする希少種の重要な生息地が広がっている。地図上の制度の線と、生きものが実際に使っている場所の線が、一致していなかったのだ。
加えて、平坦で日照条件が良く、地価が比較的安いという事業側の条件も重なった。制度上は適法でありながら、生態系の観点からは看過しがたい——そういう区画が数多く存在した。
釧路市の条例——2025年10月施行
こうした状況を受け、釧路市は2025年に「ノーモア メガソーラー宣言」を公表し、「釧路市自然と太陽光発電施設の調和に関する条例」を2025年10月1日に施行した。市内で太陽光発電施設を設置する事業には市の許可が必要となり、出力10kW以上の事業用設備が対象に含まれる。あわせて、市文化財保護条例に基づき、市指定天然記念物であるキタサンショウウオの生息に影響を及ぼす切土・盛土・埋立てなどの工事も手続きの対象とされている。
この論点をどう受け止めるか
- 再生可能エネルギーの拡大それ自体は、気候変動対策として引き続き重要である
- 同時に、立地の選定を誤れば生物多様性の損失という別のコストを生む
- 鍵は「どこに建てるか」。既存の建物の屋根、耕作放棄地、造成済みの工業用地など、生態系への影響が小さい場所の優先度を上げる仕組みが要る
- 自治体条例は有効な手立てだが、施行前の駆け込み着工など制度の隙間も指摘されており、広域・上位の制度設計が課題として残っている
この問題が示しているのは、保護区域の線を引いただけでは生態系は守りきれない、ということだ。生きものは制度の境界を知らない。湿原の保全を考えるなら、湿原の外側にある土地の使い方まで含めて設計する必要がある——次章のテーマ、流域という考え方につながる話である。
湿原と海はつながっている——流域でとらえる保全
釧路湿原は内陸の風景に見えるが、湿原を抜けた釧路川は釧路市街を通って太平洋へ注ぐ。湿原で起きていることは、そのまま河口の海へ届く。逆に言えば、湿原を守ることは、海を守ることの一部でもある。
泥炭は、地中に閉じ込められた炭素の貯金箱
湿原の泥炭には、数千年分の植物由来の炭素が蓄えられている。世界の泥炭地は、地表面積では陸地の数%にすぎないにもかかわらず、森林全体に匹敵するかそれ以上の炭素を蓄えているとされる。乾燥化して泥炭が分解されれば、この炭素は二酸化炭素として大気へ戻る。湿原の保全は、地味だが確実な気候変動対策なのだ。
海の側で同じ役割を担うのが、マングローブ林・海草藻場・塩性湿地といった沿岸生態系が蓄える炭素、いわゆるブルーカーボンである。淡水の湿原と沿岸の藻場は、生態系としては別物だが、「植物が固定した炭素を、酸素の乏しい土壌に長期間閉じ込める」というしくみは共通している。日本の炭素勘定を考えるうえで、両者は同じ発想の延長線上にある。
湿原 → 川 → 河口 → 海というひとつながり
湿原が土砂と栄養塩を受け止めているあいだ、下流の河口域と沿岸には、澄んだ水と適度な栄養が届く。逆に湿原が機能を失えば、濁った水と過剰な栄養塩がそのまま海へ流れ込み、赤潮や貧酸素化の引き金になりうる。干潟の保全が語られるとき、その干潟に何が流れ込んでくるかは上流の土地利用で決まる——湿原はその上流側の最前線にある。
人の暮らしと自然の関係という点でも共通点がある。瀬戸内海で育まれた里海という考え方は、人が適度に手を入れることで海の生産性と多様性が高まるという発想だ。釧路湿原の自然再生も、「人が触らないこと」ではなく「人が正しく関わり直すこと」を選んでいる点で、同じ思想を共有している。壊したのが人である以上、戻すのも人の仕事だという、静かな現実主義である。

湿原保全を「流域」で考えるということ
- 湿原の乾燥化の原因の多くは、湿原の外(上流の森林・農地・市街地)にある
- したがって対策も、湿原の中の工事だけでは完結しない
- 土砂・栄養塩・水の3つの流れを、森から海までひと続きで管理する必要がある
- 泥炭の炭素貯留は、沿岸のブルーカーボンと並ぶ気候変動対策の柱でもある
湿原を訪ねる——木道・展望台・カヌーで味わう日本最大の湿原
ここまで課題の話が続いたが、釧路湿原はまず「行って気持ちのいい場所」である。保全は、その場所を好きになる人がいて初めて続く。最後に、湿原を楽しむための入口を紹介したい。
高いところから見る/中を歩く
湿原の楽しみ方は大きく2通りある。展望台から全体の広がりを俯瞰するか、木道を歩いて湿原の内側の細部に触れるか。どちらか一方ではもったいない。同じ湿原が、スケールを変えるとまったく違う顔を見せる。
| タイプ | 代表的なスポット | 見どころ |
|---|---|---|
| 展望する | 釧路市湿原展望台、細岡展望台、コッタロ湿原展望台 | 地平線まで続く湿原の広がり、夕景 |
| 歩く | 温根内木道、釧路市湿原展望台の遊歩道 | 湿原植物、季節の花、野鳥をすぐ近くで観察 |
| 水面から見る | 釧路川のカヌーツアー(塘路湖〜細岡ほか) | 水面の高さから見る湿原と、川岸の生きもの |
| 学ぶ | 釧路湿原野生生物保護センター、温根内ビジターセンター | 湿原の成り立ち、希少種の保護の現場 |
| 列車で通る | JR釧網本線(釧路湿原駅・細岡駅ほか) | 車窓から湿原を横断できる。冬は雪原の景色 |
カヌーで水面から見る
とくに印象が変わるのがカヌーだ。湿原の中の川は流れが穏やかで、水面はヨシの高さより低い。つまりカヌーに乗ると、湿原を「見下ろす」のではなく、湿原の内側から、生きものと同じ目線で眺めることになる。エンジン音がないので、鳥の声や風がヨシを揺らす音がそのまま届く。ガイド付きのツアーが複数運航しており、初心者でも参加しやすい。
四季でまったく違う顔を見せる
釧路湿原は、訪れる季節で印象が一変する。春(5〜6月)は雪解け水が湿原を満たし、キタサンショウウオが産卵する季節。ミズバショウが咲き、渡り鳥が戻ってくる。初夏(6〜7月)はエゾカンゾウやワタスゲが咲き、緑がいちばん瑞々しい時期だ。釧路は夏でも海霧の影響で涼しく、本州の猛暑を逃れて訪れる人も多い。
秋(9〜10月)はヨシが黄金色に染まり、湿原全体が輝いて見える。展望台からの夕景がとくに美しい季節だ。そして冬(12〜2月)。湿原は雪原に変わり、凍らない川辺に集まったタンチョウが、白い風景のなかで求愛のダンスを見せる。マイナス20度を下回る朝には、川面から立ちのぼる水蒸気が凍る「けあらし」に出会えることもある。
「湿原は夏に見るもの」と思われがちだが、冬の釧路湿原はタンチョウの季節であり、雪に覆われて地形の起伏がくっきり見える時期でもある。一度きりで終わらせず、季節を変えて再訪すると、同じ場所が別の土地のように見えてくる。
訪れるときに守りたいこと
- 木道や決められた歩道から外れない。湿原の植生と泥炭は踏圧に非常に弱く、一度崩れた場所の回復には長い時間がかかる
- タンチョウなど野生動物には近づきすぎない。繁殖期の営巣地への接近は繁殖失敗につながる。撮影は距離をとって望遠で
- 動植物の採取をしない。持ち込まない(外来種の種子は靴底についてくる)
- ゴミは必ず持ち帰る。川へ流れ込んだものは最終的に海へ出る
- ヒグマの生息域である。単独行動を避け、鈴やラジオで存在を知らせ、現地の注意喚起に従う
- 夏はエゾシカのマダニ対策として長袖・長ズボン、虫よけを用意する
今日からできること
- 訪れる:展望台・木道・カヌーを組み合わせ、スケールを変えて湿原を体験する
- 知る:釧路湿原自然再生協議会の公開資料やモニタリング結果を読む。市民参加の観察会もある
- 支える:湿原の保全・再生に取り組むNPOや、市民参加モニタリングに参加する
- つなげて考える:湿原の状態は下流の川と海の状態を決める。海の話題として湿原を見る視点を持つ
参考文献・出典
- 環境省 釧路湿原自然再生プロジェクトデータセンター – 湿原面積の推移、ハンノキ林の拡大、湿原の成り立ちなどの基礎データ
- 環境省 釧路湿原自然再生全体構想(2005年策定/2015年改定) – 自然再生協議会の全体構想。目標像と各テーマの取り組み方針
- 国土交通省 北海道開発局 釧路開発建設部 釧路湿原自然再生事業 茅沼地区旧川復元 – 旧川復元の計画・施工・モニタリング結果
- 国土交通省 北海道開発局 釧路開発建設部 久著呂川土砂流入対策 – 湿原流入部土砂調整地による細粒土砂の沈降対策
- 環境省 達古武湖自然再生事業実施計画(2013年3月) – 達古武湖の水質・生態系再生と森林再生の実施計画
- 北海道庁 タンチョウのページ – 越冬期一斉調査によるタンチョウの生息数と保護施策
- 環境省 釧路湿原野生生物保護センター – 希少野生生物の保護増殖事業と湿原の生きもの
- 釧路市 釧路市自然と太陽光発電施設の調和に関する条例 – 2025年10月1日施行。太陽光発電施設の設置を許可制とする条例
- 科学技術振興機構 サイエンスポータル「蛇行復元で釧路川の自然は再生した」 – 茅沼地区の蛇行復元の効果検証(湿原植生約30ha増加ほか)
- ラムサール条約登録湿地関係市町村会議 釧路湿原 – 登録面積・登録年など条約湿地としての基礎情報
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