82,621ha
1945年当時の全国の干潟面積(環境省・自然環境保全基礎調査)
60%
1996年に残っていた割合(49,380ha)。半世紀で3万3千haが消えた
18%
東京湾で残った干潟の割合(9,449ha→1,734ha)

潮が引くと現れ、潮が満ちると消える。干潟は一日に二度だけ姿を見せる、海と陸のあいだの土地です。その曖昧さゆえに、干潟は長いあいだ「まだ使われていない土地」と見なされてきました。浅くて埋めやすく、都市や工場に近く、そして地権者がいない——干潟は近代日本にとって、もっとも安く手に入る土地だったのです。

環境省の自然環境保全基礎調査によれば、1945年に82,621haあった全国の干潟は、1996年には49,380haまで減りました。失われた面積は33,241ha、東京23区の面積のおよそ半分にあたります。しかもその減り方は一様ではありません。東京湾では9,449haが1,016haまで落ち込み、備讃瀬戸東では1割しか残りませんでした。

この記事は、干潟の価値そのものを解説する干潟の保全の記事とは別に、「なぜ埋め立てられたのか」「どこで、どれだけ失われたのか」「どこで止まったのか」という歴史と経緯にしぼって整理します。数字はすべて環境省・水産庁・国土交通省など一次資料に基づいています。

この記事で学べること

  • 日本の干潟が1945年からの半世紀で3万ha以上失われた実データと、海域ごとの明暗
  • 江戸期の新田開発から高度経済成長期の臨海工業地帯まで、干潟が「埋め立てやすい土地」とされた理由
  • 東京湾で8割超、備讃瀬戸東で9割が消えた一方、有明海が国内最大の干潟を保っている背景
  • 諫早湾干拓と「有明海異変」の経緯、2023年に確定した司法判断と再生策のいま
  • 藤前干潟・中海本庄工区・三番瀬で埋め立てが止まった転換点と、人工干潟の限界を含む再生の現在地

干潟とは何か——そして、なぜ「埋め立てやすい土地」だったのか

干潟とは、潮の干満によって干出と水没をくり返す、砂や泥でできた平らな海底のことです。環境省の自然環境保全基礎調査では、干出幅がおおむね100m以上、干出面積が1ha以上あり、砂泥など移動しやすい底質でできた場所を干潟として集計しています。河川が運んだ細かい土砂が、波の弱い内湾にゆっくり積もることで形づくられます。

海でも陸でもない、生産力の高い場所

干潟の底には有機物が絶えず供給され、太陽光が浅い水を通して底まで届きます。この二つがそろうため、干潟の単位面積あたりの生物生産力は熱帯雨林やサンゴ礁に匹敵するとされます。ゴカイ類やアサリ・シオマネキが泥を耕し、それを狙って魚と鳥が集まる。人はそこでアサリを掘り、ノリを育て、稚魚が育つのを待ちました。

干潟の機能具体的な働き
水質浄化二枚貝の濾過摂食とバクテリアの分解で、有機物・窒素・リンを取り除く
漁業生産アサリ・ハマグリ・ノリの生産の場。魚類・エビ類の稚魚が育つ「保育場」
生物多様性底生生物・魚類・渡り鳥が重層的に依存。国際的な渡りのルートの中継地
防災・減災遠浅の地形が波のエネルギーを減衰させ、背後地への波の力を弱める
炭素の貯留堆積物中に有機炭素を蓄える。ブルーカーボン生態系の一つに数えられる
文化・レジャー潮干狩り・磯遊び・自然観察といった、海と人が直接ふれあう場
干潟が果たしてきた主な機能。埋め立てはこれらを同時に失わせる
満潮時と干潮時で姿を変える干潟のしくみを示す断面図解
干潟は一日に二度、干出と水没をくり返す。この往復が独特の生態系を生む

「未利用地」という評価が埋め立てを後押しした

ところが近代日本において、干潟は長く「まだ何にも使われていない浅瀬」として扱われました。田畑でも宅地でもなく、私有地でもない。海面は公有であり、そこに存在する権利は漁業権として整理されていたため、漁協との補償交渉さえまとまれば土地を生み出せる。この構造が、埋め立てを制度的にも経済的にも「安い選択」にしました。

  • 水深が浅い:埋め立てに必要な土砂量が沖合より圧倒的に少なくて済む
  • 都市・港湾に近い:内湾の奥にあるため、できた土地がすぐ産業用地として使える
  • 権利処理が単純:私有地の買収が不要で、漁業権の補償で手続きが完結する
  • 価値が数字にならない:浄化機能や稚魚の保育機能は当時、金額として計上されなかった

ここが出発点

  • 干潟の消失は「事故」ではなく、制度と経済合理性に沿って計画的に進められた土地造成の結果である
  • 失われたのは面積だけでなく、浄化・漁業・渡り鳥・防災という複数の機能が束になったもの
  • だからこそ、止めるにも戻すにも、制度と評価のしくみを変える必要があった

データで見る:日本の干潟はどれだけ失われたのか

干潟の減少は感覚の問題ではありません。環境省が全国一律の基準で実施してきた自然環境保全基礎調査によって、面積の推移が数字として残されています。同調査では、1945年(昭和20年)の全国の干潟面積は82,621ha、1978年(昭和53年)は53,856ha、1996年(平成8年)は49,380haと記録されています。

1945年から1978年の33年間に、2万8千haが消えた

注目すべきは減り方のスピードです。1945年から1978年までの33年間で28,765ha、実に当時あった干潟の3分の1以上が消滅しました。その後の1978年から1996年の18年間の減少は4,476haで、ペースは明確に鈍化します。これは日本の埋め立てが、高度経済成長期に集中して行われたことをそのまま映しています。

全国の干潟面積が1945年82,621haから1978年53,856ha、1996年49,380haへ減少したことを示す棒グラフ風の図解
全国の干潟面積の推移。1945年→1978年の減少が突出している(出典:環境省・自然環境保全基礎調査)

海域別に見ると、失い方はまったく違う

全国平均で「6割が残った」といっても、地域差は極端です。1945年に1,000ha以上の干潟があった主要な海域について、環境省の資料は次の数字を示しています。

海域1945年(ha)1978年(ha)1996年(ha)1945年比
全国82,62153,85649,38060%
有明海26,60922,22620,39177%
周防灘西8,5906,7396,53276%
八代海6,8674,8784,08359%
三河湾2,6271,3671,52658%
伊勢湾2,9391,1531,37547%
別府湾1,59870243827%
東京湾9,4491,0161,73418%
備讃瀬戸東3,71549237310%
主な海域の干潟面積の推移(出典:環境省「干潟・藻場・サンゴの減少」、自然環境保全基礎調査第2回・第5回)

東京湾は18%、備讃瀬戸東(岡山・香川の瀬戸内東部)は10%しか残りませんでした。一方で有明海は77%が残り、1996年時点の全国の干潟の約4割(20,391ha)が有明海に集中しています。都市と工業の圧力が直接かかった海と、そうでなかった海の差がそのまま出ています。

なぜ有明海だけが残ったのか

有明海に干潟が残ったのは、保護が行き届いたからではありません。もともとの面積が桁違いに大きかったこと、そして干潟を消費する側の産業立地が限定的だったことが主な理由です。有明海は筑後川をはじめとする複数の大河が大量の細粒土砂を運び込み、最大およそ6mの干満差がそれを広く薄く敷きならす。土砂の供給が続くかぎり、干潟は前面へ育ち続けます。

ただし「残っている」ことと「健全である」ことは別です。有明海では干潟面積が保たれた一方で、後述するとおり2000年前後から漁業資源の異変が続きました。面積という指標だけでは、干潟の状態は測れないのです。

藻場も同時に減っている

失われたのは干潟だけではありません。同じ調査で、全国の藻場面積は1978年の207,615haから1992年の201,212haへと減少しています。干潟と藻場は連続した浅海生態系であり、沿岸の浅い部分が面として削られてきたことを示しています。詳しくは藻場の再生の記事も参照してください。

数字を読むときの注意

  • 1945年の値は、第2回調査の「現存干潟面積+消滅干潟面積」から復元された推計値である
  • 1978年→1996年で東京湾・伊勢湾・三河湾が増えているのは、人工干潟の造成や調査手法の違いも影響している
  • 面積が戻っても、生物の種数や生産力がそのまま戻るとは限らない(後述)

埋め立ての歴史:新田開発から臨海工業地帯まで

干潟を陸に変える営みは、戦後に始まったものではありません。日本では数百年にわたって、干潟は「増やせる田畑」として扱われてきました。ただし、目的も規模も時代ごとに大きく変わります。

第1期:江戸期の干拓——食糧を増やすための新田

江戸時代、各藩は年貢の基盤である石高を増やすため、遠浅の内湾を堤防で締め切って水を抜く干拓を進めました。有明海沿岸の佐賀平野や、岡山の児島湾はその代表例です。有明海は日本最大の干満差(大潮時で最大およそ6m)をもち、潮が引けば数kmの泥の平原が現れる。堤防を少しずつ沖へ出す方式で、田を海側へ伸ばしていったのです。

この時代の干拓は速度が遅く、部分的で、周囲の生態系がある程度追随できる規模でした。土砂の供給が続くかぎり、締め切った前面にはまた新しい干潟が育ちました。近代以降の埋め立てと決定的に違う点です。

第2期:明治〜戦前——港湾・工業と「公有水面埋立法」

近代に入ると、目的は農地から港湾・工場用地へ移ります。制度面で決定的だったのが、1921年(大正10年)に制定された公有水面埋立法です。河川・海・湖沼といった公共の用に供する水面を埋め立てるには都道府県知事の免許が必要と定めたこの法律は、裏を返せば免許さえ得れば公有の海面を私的な土地に変換できる手続きを整えたことを意味しました。以後の埋め立ては、この法律の枠組みで進みます。

第3期:高度経済成長期——最大の消失が起きた時代

1950年代後半から1970年代前半にかけて、京浜・京葉・阪神・中京・北九州といった臨海工業地帯の造成が国策として進みました。製鉄所も石油化学コンビナートも火力発電所も、原料を船で運び製品を船で出す。だから海に面した広い平地が要る。内湾の干潟は、その条件を満たす唯一の供給源でした。

全国の干潟のうち28,765haがこの時期を含む1945〜1978年に消えたという数字は、この産業構造の転換のコストそのものです。同時期には工場排水と生活排水が内湾に流れ込み、赤潮・青潮と富栄養化が深刻化しました。干潟という浄化装置を失いながら、流入負荷を増やすという二重の負荷がかかったのです。

この時期には、内湾の干潟以外でも大規模な干拓が進みました。秋田県の八郎潟は琵琶湖に次ぐ日本第2の湖でしたが、食糧増産を目的に1957年に着工した国営干拓事業によって約1万7千haが陸地となり、1977年に完了して大潟村が誕生しています。オランダの技術者が設計に関わったことでも知られる、戦後日本を代表する国土改変事業でした。

第4期:1970年代以降——廃棄物処分場・空港・住宅地へ

オイルショック以降、工業用地の需要は鈍りますが、埋め立てが止まったわけではありません。目的は廃棄物の最終処分場、空港、住宅・商業用地、レジャー施設へと変わりました。都市が出す膨大なごみを埋める場所として、内湾の浅い海が再び選ばれたのです。この構図が真正面から問われたのが、後述する名古屋の藤前干潟でした。

江戸期の新田干拓から高度経済成長期の臨海工業地帯、廃棄物処分場までの埋め立て目的の変遷を示す年表図解
埋め立ての目的は時代とともに変化した。規模が最大化したのは高度経済成長期

干潟・浅海域は、埋め立てによって最も大きな影響を受けた生態系のひとつである。

― 国立環境研究所「環境儀」No.03 コラム「干潟・浅海域と開発について」

東京湾——9,449haが1,016haになった海

干潟の消失をもっとも劇的に経験したのが東京湾です。1945年に9,449haあった干潟は、1978年には1,016haへ。実に89%が失われました。羽田から木更津まで、湾奥の海岸線はほぼ全面が直線的な護岸と埋め立て地に置き換わっています。

「江戸前」を支えた干潟が消えた

かつての東京湾は、アサリ・ハマグリ・アオヤギが採れ、ノリの養殖が盛んな海でした。「江戸前」という言葉は、この湾奥の浅海が生み出す豊かさを指しています。品川から大森、羽田にかけては広大なノリひびが並び、多摩川や江戸川が運ぶ栄養が干潟の生物を養っていました。埋め立てはこの生産基盤を、産業用地と引き換えに手放す選択でした。

三番瀬——1993年の計画が2001年に撤回されるまで

東京湾奥に残った最大級の浅海域が、千葉県市川市・船橋市沖に広がる三番瀬です。千葉県は1993年に第二次の埋め立て計画を示しましたが、市民・研究者・漁業者から強い反対が起こります。2001年春の知事選では三番瀬の埋め立てが最大の争点となり、計画の白紙撤回を掲げた堂本暁子氏が当選。同年9月、千葉県知事が埋め立て計画を正式に撤回しました。以後、県は「再生」の枠組みへ舵を切ります。

重要なのは、これが「環境アセスメントで否定された」のではなく「政治的な選択として止まった」点です。制度が自動的に干潟を守ったのではなく、世論が制度を動かした事例といえます。

葛西海浜公園——残された干潟が国際的湿地になるまで

東京湾の干潟の9割が失われるなかで、江戸川区沖の三枚洲(さんまいず)は「海上公園」構想によって残されました。ここを含む葛西海浜公園は、2018年10月18日、東京都内で初めてラムサール条約湿地に登録されます。かつて埋め立ての対象でしかなかった浅瀬が、国際的に重要な湿地として位置づけ直された象徴的な出来事でした。

谷津干潟と盤洲干潟——生き残った干潟の事情

千葉県習志野市の谷津干潟は、周囲をすべて埋め立てられて市街地と高速道路に囲まれた、約40haの「取り残された」干潟です。国有地であったことなどから埋め立てを免れ、市民の保護運動を経て、1993年6月10日、日本の干潟として初めてラムサール条約湿地に登録されました。住宅地のただ中にありながら、いまも多数のシギ・チドリ類が飛来します。

一方、千葉県木更津市の小櫃川河口に広がる盤洲干潟は、河川が土砂を供給し続けている東京湾で最大級の自然干潟です。前面の干潟だけでなく、背後にヨシ原と塩性湿地が連続する構造が保たれている点が貴重で、東京湾の干潟の「本来の姿」を今に伝えています。

東京湾の干潟が1945年から1978年にかけて89%失われたことを示す湾の地図比較図解
東京湾の湾奥は、干潟の帯が直線的な埋め立て護岸に置き換わった

面積が「増えた」ことの意味

  • 東京湾の干潟面積は1978年の1,016haから1996年には1,734haへ増加している
  • これは自然の回復ではなく、人工干潟の造成や浚渫土砂による浅場づくりの結果を多く含む
  • 人工干潟は生物量が自然干潟に及ばない例が報告されており、面積の回復=機能の回復ではない

有明海と諫早湾——日本最大の干潟で起きたこと

有明海は日本の干潟の約4割(1996年で20,391ha)が集中する、国内最大の干潟域です。最大およそ6mという日本一の干満差が、幅数kmにおよぶ泥の干潟を毎日つくり出します。ムツゴロウ・シオマネキ・ワラスボといった有明海固有の生物相は、この泥質干潟に依存しています。

国営諫早湾干拓事業と1997年4月14日

有明海の奥、長崎県の諫早湾で進められたのが国営諫早湾土地改良事業(諫早湾干拓事業)です。1989年に着工し、防災と農地造成を目的として湾を潮受堤防で締め切る計画でした。そして1997年4月14日、潮受堤防の最終締切が実施されます。多数の鋼板が次々と海に落とされる映像は「ギロチン」と呼ばれ、干拓地と調整池を合わせておよそ3,550haの海域が海から切り離されました。

「有明海異変」——2000年度のノリ大凶作

締切から数年後、有明海では異変が続発します。決定的だったのが2000年度(平成12年度)冬のノリの大凶作でした。大型珪藻の増殖による赤潮でノリが色落ちし、産地は大打撃を受けます。あわせてタイラギ(大型の二枚貝)の資源が壊滅的に減り、休漁が続く事態となりました。貧酸素水塊の発生も報告され、これらは総称して「有明海異変」と呼ばれるようになります。

国は2002年に有明海・八代海の再生を目的とする特別措置法を制定し(2011年改正で対象海域を拡大)、環境省に有明海・八代海等総合調査評価委員会を置いて原因究明と再生策の評価を続けています。ただし、干拓事業と海域環境の悪化の因果関係については、専門家のあいだでも評価が分かれた状態が続いています。潮流の変化、河川からの土砂供給の減少、栄養塩バランスの変化、水温上昇など複数の要因が絡むためです。

開門をめぐる20年——2023年に確定した司法判断

漁業者は潮受堤防の開門を求めて提訴し、2010年には福岡高裁で開門を命じる判決が確定しました。一方、干拓地の営農者側は開門差し止めを求め、相反する司法判断が並立する異例の状態が続きます。その後、国が確定判決の強制力を失わせるよう求めた請求異議訴訟で福岡高裁が国の主張を認め、2023年3月、最高裁が漁業者側の上告を退けたことで「開門しない」方向で司法判断が確定しました

司法上の決着はついても、有明海の再生という課題は残ります。国と関係県は開門によらない再生策——覆砂や作れい(海底の耕うん)、二枚貝の資源回復、河川からの負荷対策など——を進めていますが、失われた干潟そのものを取り戻す道筋は示されていません

諫早湾の潮受堤防で湾奥が調整池として切り離された構造を示す模式図
潮受堤防によって湾奥は調整池となり、海水の出入りが遮断された

中立に押さえておきたい点

  • 諫早湾干拓は防災(高潮・洪水対策)と農地造成という公共目的をもって実施された事業である
  • 干拓地では現在も農業が営まれており、開門は営農者にとって生活基盤に直結する問題である
  • 有明海の環境変化には複数要因が指摘され、単一原因に帰する説明は科学的に成立していない
  • 一方で、大規模な干潟の喪失が海域の物質循環に影響したこと自体は広く共有されている

干潟が消えると、何が失われるのか

埋め立ての帳簿に載るのは「造成された土地の面積」だけです。失われた側の機能は、長らく数字になりませんでした。ここでは、干潟が担っていた働きを具体的な数値で確認します。

水質浄化——二枚貝という生きた濾過装置

干潟の浄化力の中心は二枚貝です。成貝のアサリ1個(10g程度)は1時間におよそ1Lの海水を濾過するとされ、1平方メートルに成貝が20個いる干潟なら、単純計算で1日あたり約480Lの海水が濾されることになります。1haなら1日480万L規模です。二枚貝が取り込んだ有機物は排泄物として底に落ち、バクテリアが分解し、一部は脱窒によって窒素ガスとして大気に戻ります。

つまり干潟は、流域から流れ込む窒素・リンを海の中で処理する「無料の下水処理場」として働いていました。埋め立てはこの装置を停止させると同時に、そこに新たな汚濁源(工場・都市)を置くことを意味します。栄養塩負荷の増加と処理能力の低下が同時に起きれば、赤潮や貧酸素化が悪化するのは道理です。

漁業——アサリ漁獲量はピークの数%に

干潟の代表的な水産物であるアサリの国内漁獲量は、農林水産省の漁業・養殖業生産統計によれば1983年の約16万トンをピークに減り続け、近年は1万トンを大きく下回る水準にまで落ち込みました。原因は干潟の喪失だけでなく、貧酸素・食害・稚貝の着底不良など複合的ですが、生息場所そのものが物理的に消えたことが基盤にあることは動かせません。潮干狩り場の多くが放流に頼るようになったのも、この延長線上にあります。

渡り鳥——国境を越える連鎖の切断

干潟は、シベリアや北極圏で繁殖し東南アジア・オセアニアで越冬するシギ・チドリ類の中継給油地です。彼らは数千kmを飛ぶ前に干潟で体重を倍近くまで増やします。1か所の干潟が消えれば、そのルート全体が機能しなくなる。東アジア・オーストラリア地域フライウェイでは、渡り性シギ・チドリ類63個体群のうち38%が減少傾向にあると報告されています。

この危機は日本国内だけの話ではありません。中継地の中核である黄海沿岸では、1950年代から2000年代初頭までに干潟の約3分の2が埋め立てられたとされ、韓国のセマングム干拓(1991年着工、2006年締切)では年間およそ30万羽が利用していた干潟が失われました。黄海でオバシギなどの個体数が大幅に減少したという報告もあります。詳しくはシギ・チドリと干潟の危機で扱っています。

生物多様性——泥の中の階層構造が消える

干潟の生き物は、泥の深さと潮位に応じてきれいに住み分けています。表層でケイソウを食べるウミニナやコメツキガニ、数cm下で濾過摂食するアサリ、さらに深くまで巣穴を掘るアナジャコやムツゴロウ。この立体的な階層構造こそが干潟の生産力の源で、巣穴が酸素を泥の奥まで届けることで、微生物による分解と脱窒が進みます。

埋め立ては、この構造を土砂で一度に埋めます。移動能力の低い底生生物は逃げられず、そこに依存していた魚類・鳥類も同時に失われる。干潟の消失は、部分的な劣化ではなく群集まるごとの消滅として起きるのが特徴です。しかも泥質干潟に固有の種は代替地が少なく、有明海のムツゴロウのように分布が限られる種ほど打撃が大きくなります。

干潟の泥の中で深さごとに住み分ける底生生物の階層構造を示す断面図解
干潟の生物は深さごとに住み分ける。巣穴が泥の奥まで酸素を届け、分解と脱窒を支える

防災・炭素・文化

  • 波の減衰:遠浅の干潟は波のエネルギーを削ぐ。直立護岸に置き換えると波は反射し、前面の海底が洗掘されやすくなる
  • 炭素の貯留:干潟の堆積物は有機炭素を長期に蓄える。ブルーカーボン生態系として国の吸収量算定にも組み込まれつつある
  • 文化と教育:潮干狩り・磯観察は、海を「見る」だけでなく「触る」体験の入口。埋め立ては海への物理的なアクセスも断つ
干潟が担う水質浄化・漁業・渡り鳥・防災・炭素貯留の5つの機能を示す断面図解
干潟は複数の機能を同時に担う。埋め立てはそのすべてを一度に失わせる

埋め立てが止まった転換点——3つの現場と制度の変化

1990年代後半から2000年代初頭にかけて、日本の干潟をめぐる流れは明確に変わります。計画が進行中だった大規模な埋め立て・干拓が、相次いで中止・撤回されたのです。それは制度の力だけでも、科学の力だけでもありませんでした。

藤前干潟(1999年)——ごみ処分場計画が「ごみを減らす」に反転した

名古屋市は増え続けるごみの最終処分場として、庄内川・新川・日光川の河口に広がる藤前干潟の埋め立てを計画していました。市民団体と研究者は、ここが年間2万羽を超える渡り鳥が利用する国内有数の中継地であることを示し、粘り強く反対します。そして1999年1月、名古屋市は埋め立て計画の中止を決定。翌2月には「ごみ非常事態宣言」を出し、分別と減量へ全面転換しました。

この転換は象徴的です。「干潟を埋めてごみを捨てる」から「ごみそのものを減らす」へと、問題の立て方が変わったからです。藤前干潟は2002年11月18日、ラムサール条約湿地に登録されました(登録面積323ha)。

中海本庄工区(2000年)——国営干拓事業が止まった稀有な例

島根県の中海では、干拓と淡水化を組み合わせた国営事業が長く続いていました。最後まで残った本庄工区について、2000年に干拓が中止、2002年には淡水化事業も中止となります。研究者による調査と提言、そして住民運動が国営事業を止めた、きわめて珍しい事例です。宍道湖・中海は2005年11月にラムサール条約湿地に登録され、2007年には法定の中海自然再生協議会が設立されました。

三番瀬(2001年)——選挙で決着した埋め立て

前述のとおり、三番瀬の埋め立て計画は2001年9月に千葉県知事が撤回しました。藤前・中海・三番瀬に共通するのは、「事業の必要性」そのものが社会的に問い直された点です。人口減少と産業構造の変化を背景に、「土地を造る」ことの前提が崩れつつあったことも大きく影響しています。

制度はどう変わったか

時期制度干潟にとっての意味
1921年公有水面埋立法(大正10年法律第57号)知事の免許で公有水面を土地に変換できる手続きを確立。埋め立ての制度的基盤
1973年同法の改正環境保全への配慮を免許要件に追加し、必要最小限の埋め立てという考え方を導入
1993年環境基本法環境保全を国の基本政策として位置づけ
1997年環境影響評価法(1999年全面施行)一定規模以上の埋め立てを法アセスの対象事業に。事前の環境評価が義務化
2002年自然再生推進法失われた自然を「取り戻す」ための協議会方式の枠組みを整備
2002年有明海・八代海再生特別措置法海域単位での再生と、評価委員会による科学的検証の仕組みを設置
干潟の埋め立てをめぐる主な制度の変遷

ただし、環境影響評価法は事業の可否を判定する制度ではなく、影響を評価し公表させる手続き法です。アセスを通れば埋め立てはできます。実際に埋め立てを止めたのは、多くの場合、制度そのものではなく、制度が生んだ情報公開のもとで動いた世論と政治判断でした。

藤前干潟・中海本庄工区・三番瀬で埋め立て計画が中止・撤回された年表と制度変化の図解
1999〜2002年に、現場と制度の両面で流れが変わった

再生への挑戦と、その限界

止めることと、戻すことは別の課題です。日本各地で干潟の再生が試みられていますが、そこには技術的にも制度的にも難しさがあります。

人工干潟は自然干潟の代わりになるか

港湾の浚渫土砂などを使って浅場をつくる人工干潟は、国土交通省の港湾事業などで各地に整備されてきました。東京湾の干潟面積が1978年以降やや回復したのも、この造成による部分が含まれます。しかし、人工干潟は底質の粒度、地下水の浸出、周囲との連続性といった条件が自然干潟と異なり、生物の定着や生産力が及ばない事例が報告されています

  • 底質の問題:均質な砂を敷いた干潟は、泥質を好む生物や多様な粒度に依存する群集を再現しにくい
  • 持続性の問題:波や流れで砂が流出し、維持のために継続的な養浜が必要になる場合がある
  • 連続性の問題:背後にヨシ原や塩性湿地、前面に藻場が連続する構造がないと、生態系として完結しにくい
  • 代償の論理:「埋め立てる代わりに人工干潟を造る」という交換が、失われた機能の等価な回復を意味するとは限らない

自然再生推進法という枠組み

2002年に成立した自然再生推進法は、行政・住民・専門家・NPOが対等な立場で協議会をつくり、地域主導で再生事業を進める仕組みを定めました。中海自然再生協議会(2007年設立)や、山口県の椹野川河口域・干潟の再生などが、この枠組みで動いています。時間はかかりますが、合意形成の過程そのものを制度に組み込んだ点が新しさでした。

「30by30」と価値づけの転換

近年は、干潟の価値を数字で示す仕組みが整いつつあります。国は生物多様性国家戦略のもとで2030年までに陸と海の30%以上を保全する「30by30」を掲げ、企業や自治体が管理する区域を自然共生サイトとして認定する制度を運用しています。また、藻場・干潟が吸収する炭素を評価するJブルークレジットのような市場も動き始めました。

これは、埋め立てが進んだ時代に「価値が数字にならなかった」という根本問題への回答でもあります。干潟を残すことに経済的な評価がつけば、天秤の傾き方が変わるからです。里海の考え方のように、人の関与を前提に海の豊かさを保つアプローチも各地で実践されています。

人工干潟と自然干潟の構造の違いを比較した断面図解
背後の湿地・前面の藻場との連続性が、干潟の機能を大きく左右する

再生を評価するときの視点

  • 面積だけでなく、底生生物の種数・現存量、鳥の飛来数といった機能の指標で見る
  • 背後のヨシ原や前面の藻場とつながっているか(生態系としての連続性)を確認する
  • 維持管理が続く前提になっていないか(永続的な養浜が必要な設計は脆弱)
  • 地域の漁業・利用と結びついているか。使われない干潟は守り手を失いやすい

私たちにできること——干潟をもう一度「使う」

干潟の消失をめぐる歴史から学べるのは、「誰も関心を持たない場所は、いちばん先に埋められる」ということです。逆に言えば、藤前干潟や三番瀬を止めたのは、そこに通い、生き物を数え、価値を語り続けた人たちでした。

触れる・数える・伝える

  1. 近くの干潟に行く:潮干狩り、磯観察、干潟観察会。大潮の干潮時刻を潮汐表で調べて出かける。掘った跡は埋め戻す、採りすぎない、というマナーは守る
  2. 市民調査に参加する:シギ・チドリ類の全国モニタリング(モニタリングサイト1000)など、市民が支える長期調査がある。データは政策判断の根拠になる
  3. 地元の計画を見る:港湾計画や埋め立て免許の告示は公開情報。パブリックコメントの機会もある
  4. ごみを減らす:藤前干潟の教訓そのもの。最終処分場の需要が減れば、埋め立て圧力も減る
  5. 干潟の産物を選んで買う:地元産のアサリやノリを買うことは、干潟を維持する漁業を支えることになる
干潟観察に出かける家族と、潮汐表を見て大潮の干潮時刻を確認する様子のイラスト
大潮の干潮時刻を調べて出かけるのが基本。掘った跡は埋め戻すのがマナー

「戻す」より「残す」ほうが、はるかに安い

有明海の再生に投じられてきた費用と時間を考えれば、一度失った干潟を機能ごと取り戻すことの難しさとコストは明らかです。日本にはまだ約5万haの干潟が残っています。この残された部分をどう扱うかが、次の50年を決めます。

この記事のまとめ

  • 全国の干潟は1945年の82,621haから1996年の49,380haへ、半世紀で約4割が消えた
  • 減少の大半(28,765ha)は1945〜1978年の高度経済成長期に集中し、東京湾は18%、備讃瀬戸東は10%しか残らなかった
  • 有明海には全国の約4割の干潟が残るが、諫早湾干拓の締切(1997年)後に「有明海異変」が起き、開門をめぐる司法判断は2023年に「開門せず」で確定した
  • 干潟の喪失は、水質浄化・漁業(アサリはピークの数%)・渡り鳥(EAAFの38%の個体群が減少傾向)・防災・炭素貯留を同時に失わせた
  • 1999〜2002年に藤前干潟・中海本庄工区・三番瀬で計画が止まり、環境影響評価法・自然再生推進法が整備されて流れが変わった
  • 人工干潟は自然干潟の完全な代替にはならず、いま残る約5万haを守ることが最も確実で安価な選択である

参考文献・出典

  1. 環境省 – 干潟・藻場・サンゴの減少(主な海域における干潟面積の推移/自然環境保全基礎調査 第2回・第5回)
  2. 水産庁 – 干潟の働きと現状(水産多面的機能)
  3. 国立環境研究所 – 環境儀 No.03 コラム「干潟・浅海域と開発について」
  4. 環境省 中部地方環境事務所 – 藤前干潟の保全について(埋立計画の中止とラムサール条約登録の経緯)
  5. 千葉県 – 三番瀬再生計画案 第一章「三番瀬の歴史」
  6. 環境省 – 有明海・八代海等総合調査評価委員会
  7. 法務省 – 諫早湾干拓関係訴訟(開門請求・請求異議訴訟の経過)
  8. 国土交通省 関東地方整備局 千葉港湾事務所 – 東京湾海域環境創造事業「干潟の保全と再生」
  9. 農林水産省 – 漁業・養殖業生産統計(アサリ類の漁獲量の推移)
  10. WWFジャパン – 黄海エコリージョン 活動報告(黄海沿岸の干潟消失と渡り鳥)

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